日本人の心がわかる日本語 (Japanese Words to Understand the Japanese Mind) (2011) [森田 六朗]

目次

日本語を学ぶ方たちへ

日本語を教える方たちへ

第一章 内と外を分ける(うちとそとわける)

第二章 他人の目を意識する

第三章 周囲に配慮する

第四章 人間関係を大切にする

第五章 表現を抑える(ひょうげんをおさえる)

第六章 精神主義を好む

第七章 日本人の価値観

参考文献


日本語を学ぶ方たちへ

日本列島は周りを海に囲まれています。そのため中国のように長期にわたって異民族に支配される歴史も、アメリカのようにさまざまな外来の民族が新しい国家をつくるというような経験もなく、日本は長い間、外部の人々と交流する機会が少ないまま近代を迎えました。日本語や日本文化の中に、外国の人たちから見ると、なかなか理解しにくい事柄が見られるのはそのためだと思われます。

たとえば、「日本人は礼儀正しい」とよく言われますが、本当にそうなのでしょうか。もしそうだとして、それはなぜなのでしょうか。また、「日本人は、自分の本当の考えや意見をなかなか言わない」などと言われますが、それはどうしてなのでしょうか。

この本は、「人目」や「人並み」、「控えめ」や「けじめ」など、簡単なようで、実はいろいろな意味を持って使われていて、外国人にわかりにくい言葉を取り上げ、その意味や使い方をくわしく見ながら、その背景にある日本人の感じ方や考え方について考えてみようとしたものです。日本人は、どのように思ってこう言うのか、またこう言ったときはどのように感じているのか、ということを、できるだけわかりやすく書いたつもりです。

また「いさぎよい」「品」「義理」など、日本人が昔から価値あるもの、美しいものと考え、毎日の生活の中で大切にしてきた事柄、考え方などについてもできるだけ取り上げました。難しい単語には、英語・中国語・韓国語の訳がつけてありますので、それを参考にして、読み進んでください。

さらにくわしく知りたい人は、「もっと深く!」を読んでみてください。その中で、その言葉と関係のあるいろいろな知識や、民族学・社会学・哲学・心理学などの専門家の見方など、興味深い話題を取り上げています。文章は少し難しくなっていますが、挑戦してみてください。どこからでもかまいません。

この本で取り上げた日本語を、ひとつひとつ研究していって、日本人がお辞儀をするとき、遠慮するとき、笑ったとき、怒ったとき、どのように感じてその言葉を使っているのかがわかるようになったら、あなたの日本語はそうとう進歩していることでしょう。

この本があなたの日本語の学習に役立てば幸いです。

日本語を教える方たちへ

日本語の授業の中で、たとえば「遠慮する」という言葉が出てきたとする。それをどう説明するか?その先生がたまたま英語の単語を知っていて、これは「refrain from〜」です、と言ってすむだろうか?中国語の「客気」と同じですよ、と言って説明したことになるのだろうか?あるいは日本語で「相手のことを考えること、そして何かをしないこと」ですよ、と説明したとして、それで学生たちは理解するだろうか?

日本語の教師をしていると、毎日がこういう悩ましい自問自答の連続だと言っていい。相手の学生の日本語のレベルによって、説明の仕方が変わってくるのはもちろんだとしても、この「遠慮」をはじめとして、「照れる」、「いさぎよい」、「品」など、なかなか一言では説明できないような言葉に出会うたびに、いつも歯がゆい思いをしてきた。

それらの言葉の全体像をとっさに過不足なく説明することなど、とてもできない相談なのだが、一人の日本人として、その言葉のイメージや背景にある日本人の感性などを、なんとか伝えることはできないものか、と少しずつではあるが、メモを取り始めた。そのうちに、平素なにげなく使っている簡単な言葉の背景に、意外に深い文化の根がかくれているのに気がついたり、日本人〔判読不能〕

が日常生活の中で、何を考え、どんな風に感じて生きてきたのか、ということが少しずつ見えてきたりした。大学院の「日本文化研究」の授業の中で、日本人の価値観や美意識について説明するのに、そのメモの一部を使ったところ、今までにない手応えがあったことから、本書の執筆を思い立った。

本書は、日本人の感性に深く関わるような意味を内包する言葉、その意味するところ、用例などに注目して、日本人の生活感覚や感性のありようを探ってみたものである。日本語を学んでいる外国人や、日本語を教える先生、さらには外国人とのつきあいの中で日本人の心について語ろうとする人々にとって、何かしら手がかりになれば幸いである。

本書の出版については、アスクの河野麻衣子さんの並々ならぬご尽力と社長の天谷修身氏の温かいご支援をいただいた。心から感謝申し上げる。

二〇一一年四月吉日 北京にて
森田 六朗(もりた ろくろう)


第一章 内と外を分ける(うちとそとわける)


内と外(うちとそと)

「内と外」といえば、第一に、自分の「家庭」とその外側にある「社会」を意味します。「家」という漢字を「うち」と読むのは、そのことを象徴的に表しています。

日本人にとって、一番初めに出会う「内」は自分の「家」ですが、その後成長するにしたがって、だんだん学校や会社など自分が所属している組織を「内」と意識するようになり、「うちの会社」「うちの学校」と言うようになります。そして、「内」以外の人や組織を、「外」と考えるのです。「外」はまた「よそ」とも言います。

子どもの頃は、友だちの家庭をうらやましいと思うことがよくありますが、「〇〇くんは新しいゲームを買ってもらった」というような話を聞いて、自分の親に「ぼくも欲しい!」とねだった経験は誰にでもあるでしょう。そんなときの日本の親の「決まり文句」が例 1 です。

例 1
子ども「お母さん、あのおもちゃ買ってよ。みんな持ってるんだよ〔判読不能〕」
母親「よそはよそ、うちはうち!がまんしなさい!」

例 2
先生、こんにちは。うちの子どもがいつもお世話になっています。

例 3
うちの会社はよその会社と比べて給料がいい。

例 4
そっちの部長は優しくていいなあ。うちの部長なんていつも怒ってばかりで大変だよ。

大人になっても、自分の家庭はもちろん「内」ですが、自分と同じ会社の人も「うちの会社の人」と言い、会社の中でも同じ部署の人は「うちの部の人」、ほかの部署の人は「よその部の人」になります。そして同じ部署の中でも、自分と同じプロジェクトチームの人は「うちのチームの人」、ほかのプロジェクトチームの人は「よそのチームの人」となります。

このように、「内と外」というのは、自分が所属する集団の枠組みの変化によって、その場その場で変わります。

たとえば、ある組織で何か事件が起きたときに、それを「身内(内部の関係者)」だけで処理することを、「うちうちで片付ける」と言います。これは、「外」には情報を出さない、という意味です。

また、普段は着ないようなきれいな服を「よそ行きの服」と言ったり、親しい相手なのに距離があるような態度をとることを、「よそよそしい」と言ったりします。どちらの言葉も文字通り、「よそ(外)」に行くときの服、「よそ(外)」の人に対してとるような態度、という意味です。

例 5
もう長いつきあいなんだから、いつまでもそんなによそよそしい話し方をしないで、もっとくだけた話し方をしてよ。

敬語は、目上の人やあまり親しくない人に使う場合は丁寧に聞こえる話し方ですが、基本的には「よそ行き」の言葉です。そのため、親しくなったのにいつまでも敬語を使っていると、相手にとっては、親しみを感じない態度に見えてしまいます。しかし、あまり親しくないのに、親しそうにするのも「なれなれしい」と嫌がられるかもしれません。

日本人にとって「内と外」というのは、自分の言葉づかいや態度、行動を決定する上で、非常に重要な基準なのです。

もっと深く

哲学者の和辻哲郎はその著『風土』の中で、妻が夫のことを「うちの人」と呼び、夫が妻のことを「家内」と呼ぶ日本の例を出して、「このような「うち」と「そと」の区別は、ヨーロッパの言語には見いだすことができない」と言っている。また社会人類学者の中根千枝は、著書『タテ社会の人間関係』の中で、日本人の「内と外」の意識は、組織の一体感を強めるものだが、その反面、同じ組織以外の人を排除することにもなると言っている。

日本語には、「内」や「外」を使った表現がいろいろある。

これらの言葉からもわかるように、日本人は「内と外」をはっきりと区別する感覚が非常に鋭い。それは、つまり、「けじめ」(IP28)をつけることでもある。

単語ノート


世間(せけん)

「世間」とは、具体的な場所や人を指すのではなく、自分が属している社会、つまり、家族ではない人と人とが、お互いに関係しながら仕事をしたり、生活をしたりしているところ、というような広い意味を持つ言葉です。「世間」を簡単に言うと、家(うち)以外の人々、つまり「外」の人たちとも言えるでしょう(「内と外」→P12)。

たとえば、日本人は、何か事件を起こしたときに、「世間に顔向けできない」とか「世間に笑われる」などとよく言います。この場合の「世間」とは、家族や身内以外の人、という意味です。また、政治や社会のニュースなどで、よく「世間の声」や「世間が許さない」という表現が使われます。この場合の「世間」とは、日本の国民全体や、日本の社会全体を意味しています。

例 1
そんな行動は、家族は認めても、世間が許さないだろう。

例 2
大学生にもなって、そんな世間知らずなことを言うと笑われる。

例 3
たとえ世間を敵に回しても、私は自分の考えを貫きます。

「世間知らず」というのは、社会や世の中の習慣や決まりを知らないまま生きている人を、批判する言葉です。ふつう、そういう社会や世の中の習慣や決まりごとは、小さいときから家庭で学ぶものですから、それができないのは、家庭での「しつけが悪い」(→P24)ということになります。

つまり、日本語の「世間」という言葉の裏には、必ず家(うち)、あるいは家族、身内という考え方があり、「世間」と家は、対立した関係にあると言ってもいいでしょう。

日本人は他人との関係を意識して行動することが多いため、「世間」を使った表現はたくさんあります。

このように、日本人は、世間が家や自分をどう見ているかとても気にしています。次の表現にある「家」や「親」という言葉には、「世間に対する家」、「世間から見た家」という意識が根底にあります。

現代では、昔ほど「家」という考え方は強くなくなっていますが、日本人の行動や考え方の中には、「世間」と「家」の二つの意識があると言えるでしょう。

もっと深く

現代日本語の「人間」は「人」とほとんど同じような意味を持っているが、もともと「人」という意味はなかった。本来、「人間」は「じんかん」と読み、「人と人の間」、「人の世」を指す言葉だった。現代中国語でも、「人間」は「世間」、「世の中」を意味していて、「人」そのものの意味はない。

では、なぜ日本語では「人間」が「人」と同じ意味で使われるようになったのだろうか。そのことに着目したのは哲学者の和辻哲郎である。彼は著書『人間の学としての倫理学』の中で、人は世間・世の中にあって、つまり人間関係において初めて「人」となるため、人間を「世間」と「人」の二重の意味に使うことは、人間の本質をもっともよく言い表したものであると言っている。

人は、個人であるとともに社会的な存在であり、日本語の「人間」という言葉は、人と人との間柄に生きるものとしての「人」を指している、と言うのである。

単語ノート


躾(しつけ)

日本では、子どもが小さいときから、家の「外」のルールや他人への「礼儀」(IP93)などを、親が教えるべきだと考えられています。たとえば、日本の親はよく子どもに、「ちゃんとあいさつをしなさい」「悪いことをしたら、素直に(TP33)『ごめんなさい』と言いなさい」「年上の人には丁寧な言葉を使いなさい」「人の迷惑になることをしてはいけません」「わがままばかり言っていないで、がまんしなさい」などと、社会生活に関わるさまざまなことを教えます。この家庭での教育のことを、「しつけ」と呼びます。

もし子どもの行儀が悪かったり、態度に問題があったりしたとき、多くの場合、それは子ども自身が悪いのではなく、親のしつけの問題だとされます。

例 1
最近の子どもがきちんとあいさつできないのは、親のしつけが悪いからだ。

例 2
小さい頃、食べ物を残してはいけないと、祖母に厳しくしつけられました。

「親のしつけが悪い」という言い方は、子どもだけではなく、大学生や大人に対しても使われることがあります。子どもが大人になったら、親から独立した一人前の人間と考える欧米の文化と違い、日本では、いくつになっても、子どもの行動は親にも責任があると考えられているのです。

これは、「内と外」(IP12)の考え方とも関係があり、家(「内」)というのは、世間・社会(「外」)でちゃんと生きていくための教育の場なのだから、その人の「外」での行動は、「内」に原因があるということになるのです。

「親の顔が見たい」や「お里が知れる」という表現もよく使われます。「お里」というのは、実家(=自分の生まれ育った家)のことですが、どちらも、ある人のよくない行動に関して、「家でのしつけが悪い(からこうなったのだ)」という意味です。

例 3
こんな常識を知らないなんて、どんな育ち方をしたんだ。親の顔が見たいよ。

例 4
どんなにいい服を着ていても、話し方や食べ方でその人のお里が知れる。

また、「しつけ」という言葉は、ペットや会社の従業員などに対してもよく使われます。

例 5
隣の犬はいつも夜中に吠えてうるさい。飼い主がちゃんとしつけをしていないのだろう。

例 6
この会社は社員のしつけが悪い。客が来てもあいさつもしない。

例 6 の場合、しつけの役割を担うのは、会社や上司です。ここでは、「外」の人に対して、会社全体が「内」だと考えられているわけです。「内」と「外」とを分ける日本人の考え方がよく表れている例だと言えるでしょう。

もっと深く

衣類を仕立てるとき、正しく、きれいに仕上げるため、正式に縫う前に、簡単に糸で止めておくことを「しつけ」と言う。ちょうどそのように、家庭で子どもが社会人として正しく生きられるようにすることを「しつけ」と言う。

「しつけ」は、漢字で「躾」と書かれる。「身」と「美」からできていることからわかるように、「自分の身を美しくする」という意味から考えられた字である。漢字はもともと中国から日本に伝わったものであるが、日本人が独自に作った漢字もあり、それを「国字」と言う。「躾」は国字である。

国字には、ほかに「辻」「榊」「峠」「裃」「畠」などがある。これらの文字が表している物や概念が中国になかったために、該当する漢字がなく、日本人が漢字の作り方のルールにしたがって独自に作ったのである。

中には、逆に日本から中国に入った漢字もあり、中国で権威ある辞書とされる『現代漢語詞典』には、「辻」が日本の国字として掲載されている。そのほか、「鰯」「鱈」「鱚」「鯱」「鮗」など、「魚へん」の国字も多いが、それは、日本が周囲を海に囲まれていて、魚が日本人の生活と深い関係にあるためだろう。

「しつけ」という言葉はもちろんだが、「躾」(身を美しくする)という漢字にも、それを作った日本人の感性が表れている。

単語ノート


けじめ

日常の生活や社会生活の中で、日本人が一番大切にしていると言ってもいい考え方が、「けじめ」です。日本人は、小さい頃から家庭や学校で、「ちゃんとけじめをつけなさい」「けじめのある行動をしなさい」と「しつけられ」(↓P24)ます。

では「けじめ」とは何でしょうか。

「けじめ」は、さまざまなところに見られます。たとえば、外国人が驚くことのひとつに、年末のデパートのディスプレイがあります。それまで各所にあったクリスマスツリーは、十二月二十五日を過ぎたらいっせいにお正月の門松に変えます。これも、「けじめ」を重んじる日本人の感性と言えるでしょう。

「けじめ」とは、基本的には、「区別をはっきりさせる」ということです。特に、TPO(時や場)や相手との関係をよく考えて、それにふさわしい態度や行動をとることを指します。

例 1
勉強するときは勉強する、遊ぶときは遊ぶ。けじめのある生活をしなさい。

例 2
あの二人は仕事中もおしゃべりばかりしていて、公私のけじめがない。

日本人は、同じ人と話す場合でも、それが仕事の席なのか、プライベートな場面なのかを考えて、言葉づかいや態度を変えます。それが「けじめをつける」ということです。どんなに親しい友人や恋人同士でも、会社で仕事をするときには敬語を使い、ほかの同僚と同じように接しなければなりません。プライベートで仲がいいからといって、仕事中に親しそうな話し方をしたり、プライベートな話題について話したりしていると、周りの人に悪い印象を与えることになり、「なんてけじめのない人だ」と思われることになります。

人と人との関係の中で、けじめをつけることは非常に重要で、相手が自分より目上なのか目下なのかという上下関係、内の人か外の人か、男か女かなどの違いによって、言葉づかいや態度を変えます。たとえば、仲のいい友人でも、もし、その人が仕事の上でお客さんになったら、「外」の人と接するときの言葉づかいをしなければなりません。もし、その人が自分の上司になった場合は、目上の人に対する言葉づかいや態度で接する必要があります。「友人はどんなときでも友人だ」と思う人もいるかもしれませんが、時と場合によってちゃんと区別して考えること、これが「けじめ」です。

日本人にとって、「けじめをつける」ことは、決して相手との親しい関係を損なうことにはなりません。むしろ、けじめをつけることで、相手をより尊重していることになるのです。

もっと深く

日本人の行動規範の中で、この「けじめ」という観念はおそらく一番重要なものだろう。「けじめ」とは、区別や差別化ということであるが、それは単なる区別や差別化ではない。公と私、内と外、男と女、目上と目下、先輩と後輩、先生と生徒など、社会におけるあらゆる関係を意識し、さまざまな状況の中で、はっきり違いを持たせて言語や行動に表すことである。

日本人は小さい頃から、親にずっと「お兄ちゃんなんだから、男の子なんだから、〇〇しなさい」などと「しつけられて」育つ。学校に行くようになれば、「先生に対して、上級生に対して、その言い方は何ですか!」と教育を受ける。そして、就職して会社に入れば、上司に対して、顧客に対して、どのような言動をとらなければならないかを学んでいく。

このように日本人は、家庭や学校、職場などあらゆる場所において、「けじめ」の意識を持つことが要求され、それができなければ、「けじめがない」「だらしない」と批判されるのである。こうして、敬語などの言葉づかいはもちろん、目上・目下などの人間関係を学び、上司や顧客に対する態度・姿勢などの社会的な行動規範を身につけ、一人前の「日本人」に育っていくのである。

単語ノート


素直(すなお)

「素直」というのは、ありのままだ、純粋で素朴だ、という意味で、心がまっすぐでねじれていないことを表す言葉です。

もともと日本人は、自然のままのもの、人の手を加えていないものに価値があると考え、派手に飾ったものよりも、地味なもの、素朴なものを好みます(「派手・地味」→P159)。そのため、人の性格についても、「素直」であることが高く評価されるわけです。

例 1
あの子は素直で、とてもいい子だね。

子どもは一般に、大人のように人を疑ったり、自分を飾ったりしないものです。そのため、大人の言うことを疑わないで「素直」に聞く子どもは、子どもらしい、いい子だと褒められ、反対に、大人の言うことを疑ったり、親に注意されても言い返したりするような子どもは「素直じゃない」と言われます。

「素直じゃない」、子どもらしくないと悪く思われます。

「素直」であることは、大人になってからも求められることがあります。

例 2
自分がやったと素直に認めなさい。

例 3
上司の指示に素直に従う。

例 4
彼は人の言うことを素直に受け取らないので、話していて疲れる。

「素直」は本来、心が曲がっていないことを指す言葉ですが、例 2 や例 3 では、「いさぎよさ」(→P171)や「従順さ」と同じような意味として使われています。つまり、日本人にとって、「素直であること」は、「いさぎよいこと」や「従順であること」と同じように好ましいものと考えられているということです。

反対に、人の言うことを素直に受け取らないような性格の人のことを、「へそ曲がり」(=へそが体の中心にないという意味で、性格がゆがんでいる人)と言います。

単語ノート


甘える(あまえる)

「甘える」というのは、他人に好意や愛情を求めたり、世話してほしい、助けてほしいと強く期待したりして、それを態度や行動に出すことです。

一番わかりやすいのは、子どもが親に「甘える」ことでしょう。赤ちゃんが母親の愛情を求めて抱きついたり泣いたりするのは、「甘え」の行為です。また、少し大きくなった子どもが、おもちゃを買ってほしくて泣き叫んだりするのも甘えている、ということになります。

このとき、親が子どものしたいことを何でも許したり、欲しがるものを何でも与えたりすることを「甘やかす」と言います。親が子を甘やかすと、わがままな子(自分中心に考える子)になりやすいので、「しつけ」(→P23)の観点から、一般にはよくないことだと思われています。

例 1
赤ちゃんが母親に甘える姿はかわいい。

例 2
あの子は欲しいものは何でも両親に買ってもらうなど、甘やかされて育った。

「甘える」には、子どものイメージが強いのですが、実は大人でも甘えの行為はよく見られます。たとえば、女性が恋人に向かって、「ねえ、ダイヤの指輪買ってえ」と言うのも「甘え」ですし、仕事でトラブルがあったときに、先輩や上司が助けてくれることを期待するのも、「甘え」だと言えるでしょう。

このように、普段親しい関係の人に、「相手は自分の要求を当然受け入れてくれるだろう」「自分を助けてくれるだろう」というような期待を持ち、相手に強く寄りかかるような感情を「甘え」と言うのです。

日本人はこのような「甘え」の感情を持ちやすいと言われていますが、それには、「外」に対して「内」の意識が強く働くことや(「内と外」→P12)、言葉に出さなくてもお互いの気持ちをわかり合う(「空気を読む」→P75)というような習慣が関係していると言えるでしょう。ただし、大人の場合、一般に「甘え」はよくないことだと考えられています。いくら親しい間柄でも、他人に対しては「遠慮」(→P60)があるべきだと思われているからです。

例 3
A「よかったら、お昼、うちで食べていきませんか」
B「えっ、いいんですか。それでは、遠慮なく、お言葉に甘えさせていただきます」

このように、人から好意や援助を受けるときには、「それでは、遠慮なく」とか、「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」のように言います。

親しくなったのに、遠慮ばかりするのは「水くさい」と嫌がられ、甘えてばかりいると「親しき仲にも礼儀あり」と、少しは遠慮すべきだと思われます。「甘え」と「遠慮」のバランスはなかなか難しいのですが、いい人間関係を築く上で、この二つを上手に使い分けるのは、とても大切なことです。

もっと深く

心理学者の土居健郎は、アメリカに研究滞在しているうちに、欧米人の間にも、「甘え」に似た行為や態度が見られるにもかかわらず、それにあたる概念や言葉がほとんどないことに気づく。ということは、彼らの中に「甘え」の意識もないことになる。

一方、日本では「甘え」は日常的であり、言葉としてもよく使われている。このことから、「甘える」が、きわめて日本的な特徴を持ったものであることに思い至る。その研究成果をまとめた著書『「甘え」の構造』は、日本人の間で大きな反響を呼び、一大ベストセラーとなった。

彼はその中で、「甘える」というのは、相手と一体になりたいという願望の感情であるとし、日本人の生活のさまざまな場面で「甘え」の心理が強く働いていることを明らかにしている。

単語ノート


第二章 他人の目を意識する


人目(ひとめ)

日本人は、「恥」の意識がとても強い民族だと言われます。「恥ずかしい」と思う感覚や「恥」(→P47)の意識の裏には、自分の行動や態度を周囲の人がどう思っているのか気にする気持ちがあります。日本人はいつも自分のことを他人がどう思っているか意識しながら生きていると言っても、決して大げさではありません。

この場合、他人というのは特定の「誰か」ではなく、周囲の人や「世間」(→P18)一般の人々です。このような周囲の人の視線、「世間の目」のことを、「人目」と言います。

例 1
彼女に話しかけたかったけど、人目が気になって、できなかった。

例 2
犯罪は人目のない所で行われることが多い。

外国人が日本で電車に乗ったとき、乗客がとても静かなことに驚く、と聞きます。

これは日本人が、人の大勢集まるところでは、いつも「人目」を気にしていて、人から注目されるようなことをしないようにしているからだと言えるでしょう。

日本人がどれほど「人目」を気にするのかは、日本語の中に、「人目」に関わる表現が非常にたくさんあることからもわかります。

このように見てくると、日本人の心理の中で、周囲の人の視線、世間の目というものが、いかに強く意識されていたのかがわかります。現代においては、その意識は多少薄れて来ていますが、それでも「人目」は、まだ人々の行動や態度に大きな影響を与えていると言えるでしょう。

もっと深く

「人目」に関わる表現がこのように多いのは、日本人がいかに他人の視線、世間の目を気にしながら日常生活を送っているか、ということを示すものだが、実はこの「人目」という言葉は、古く『万葉集』の歌の中にも見られる。

「うつせみの人目繁けば ぬばたまの夜の夢にを継ぎて 見えこそ」(=世間の人目が多いので、夜の夢の中に続けて現れてください)
「うつせみの人目を繁み 石橋の間近き君に 恋わたるかも」(=人目が多いために、こんなに近くにいるあなたに会えず、恋しく思っています)
「かくばかり 面影にのみ念ほえば 如何にかもせん 人目繁くて」(=あなたの面影だけが浮かんできて、現実に会えないのがつらい。人目がうるさいので)

『万葉集』は、伝承の時代から八世紀半ばまでの和歌を集めた日本最古の和歌集である。この中には、皇族・貴族から庶民に至るまで、幅広い階層の人々がうたった和歌が四千五百首収められている。このような古い時代からすでに日本人は、世間の目を気にしながら恋し、生きていたことがわかる。

単語ノート


恥(はじ)

人は自分の属する社会の中で、一定の位置を占め、何らかの役割を持ちながら生きています。つまり、その人なりに「世間」(→P18)から受ける評価というものがあり、それを意識しながら生きているとも言えるでしょう。

ですから、もし何か失敗したり、自分の欠点を知られたり、罪を犯したりすれば、自分の評価を落とすことになります。そうして、自分のプライドや名誉を傷つけられたときの気持ちを、「恥ずかしい」と言います。

「格好がつかない」「世間体が悪い」「面目がない」「面子がつぶれる」などの表現は、すべて「自分に対する世間の評価を落としてしまって恥ずかしい」という気持ちを表しています。このような場合、「恥をかく」ともいいます。

例 1
彼女を食事に誘ったのに、財布を忘れて恥をかいた。

例 1 は、もちろん「恥ずかしかった」と言うこともできますが、「恥をかいた」というのは、彼女や店の人など、その事実を知られた相手に対して、自分の格好悪い姿を見られてしまったことに対して「恥ずかしい」と思う気持ちを表しています。

つまり、「恥ずかしい」というのが、主に自分自身の個人的な感情を表すのに対して、「恥をかく」というのは、もう少し客観的な視点からの表現と言ってもいいでしょう。たとえば、うっかり滑って転んでしまったとき、それを誰も見ていなくても「こんなところで転ぶなんて、ちょっと恥ずかしい」と自分で思うことがありますが、このときは「恥をかいた」とは言いません。

「恥」は、個人的な感覚よりももっと広い世間一般の「目」や社会の評価、あるいは道徳的な意識から来ることが多いのです。

日本人は、自分が他人の目にどのように映っているかを強く意識して生きています(「人目」→P42)。ですから「恥」の感覚が非常に強いと言うことができるでしょう。逆に「恥」の意識がまったくないような人、悪いことを平気でやるような人を、「恥知らず」と非難します。

例 2
お金のために友人を裏切るなんて、君はなんという恥知らずな人間だ。

「恥を知る」ということは、一人の人間として社会生活を送る上できわめて大切なことであるわけです。

この「恥知らず」というのは、その人の人格に関わる非常に重い表現ですが、もう少し軽い言い方に、「みっともない」や「見苦しい」があります。「みっともない格好」「見苦しい態度」のように使われますが、これらの言葉は、本人の気持ちはどうであれ、周囲の人から見てよくない、「外(世間)に与える印象が悪い」という意味です。

例 3
そんな汚れた服を着て、みっともないからすぐ脱ぎなさい。

例 3 は、日本の親がよく子どもを叱るときに使う表現ですが、これは、子どもが汚れた服を着ているのを自分(親)が嫌だと思っているというよりも、「そんな姿を外の人に見られたら、自分(たち)が恥をかく」という意味で、「世間の目」を意識して言っているのです。

アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、『菊と刀』という本の中で、日本人は「恥」という価値基準をもとに行動する「恥の文化(shame culture)」を持つ民族だと書いていますが、日本語に「世間の目」を意識した表現が多いことからも、そう言えるでしょう。

もっと深く

人が何を「恥」と思うかは、社会や時代によって異なる。

平安時代中期(十世紀頃)に生まれた武士は、主人のために戦地に行って戦い、その褒賞として土地をもらって自分の一族を養う、というのが一般的な姿だった。戦場において、敵の陣地に一番先に馬を乗り入れて勇敢に戦うことは「一番乗り」と言って、武士の最高の名誉とされた。逆に、勇気のない行動は武士の「恥」とされた。特に、「後ろ傷」は一番の恥であった。

「後ろ傷」とは、戦いの中で背中に負った傷のことである。体の前ではなく背中を切られるということは、逃げようとして敵に背中を見せた証拠であり、敵を恐れたことになる。戦場において、「敵に背中を見せる」ことは、何よりも「恥」だと考えられていたのである。

その後、江戸時代(一六〇三〜一八六八年)になって、あまり大きな戦争がなくなると、武士本来の姿が失われるようになり、あらためて「武士のあるべき姿」を示す必要が出てきた。それが「武士道」(→P142)と呼ばれるものである。たとえ戦いがなくても、主人のためにいつでも命をかけて戦う覚悟を持つこと(=「忠」の考え方)が重要視され、死を恐れないこと、金銭への欲望を持たないことなどが美徳とされた。武士としての誇りを失うことは最大の恥であった。

江戸時代に強調された武士道の考え方から見ると、鎌倉時代(一一八五〜一三三三年)の武士のように褒賞のために戦うのは、むしろ恥じるべきことだったのである。

「武士道」では、そういう意味でかなり理想化された面を持っているとも言える。

武士が社会の中心であった時代が、鎌倉時代から明治維新まで約七〇〇年間も続いたため、「武士道」、特に「恥」の意識は日本人の中で重要な行動原理となり、現代でもなお根強く生きていると言えよう。

単語ノート


照れる(てれる)

「その服、素敵ですね」とか、「奥さん、きれいですね」などと褒められたら、あなたは何と返事をしますか。

素直に「ありがとう」とか「私もそう思います」と答える、という人もいるでしょう。しかし日本人は、このように人から褒められたとき、多くの場合は「いやあ、それほどでもありません」とか、「いえいえ」などと言って、恥ずかしそうにします。このような態度を、「照れる」と言います。

褒められたのに、どうして恥ずかしいと思うのでしょうか。

一般に日本人は、感情をそのまま表現するのはよくないこと、はしたない(→P154)ことだと思っています。そのため、嬉しいことであれ、悲しいことであれ、それをあまり表に出さないようにしようとします。

もちろん、褒められたら嬉しいに決まっています。しかし、その嬉しい気持ちを外に出すのは恥ずかしいので、複雑な気持ちになります。このような気持ちを、「照れくさい」と言います。みんなの前で失敗したら、「恥ずかしい」気持ちになりますが、みんなの前で褒められると、「照れくさい」気持ちになるのが日本人なのです。

例 1
そんなに褒められたら、照れるなあ。

例 2
あちらのきれいな方は奥様ですか。照れないで紹介してくださいよ。

「奥さん、きれいですね」と言われ、そのとき「いやあ、照れるなあ」と答えると、「実は自分もそう思っているけれども、それを表すのは恥ずかしいからしません」という、さりげない肯定の表現になってしまいます。

伝統的に、武士はあまり感情を表に出さないという考え方があったためか、日本人の男性には「照れ屋(=照れやすい性格の人)」が多いようです。日本人の男性は、恋人に「愛してる」などと言ってストレートに愛情を表現したり、自分の家族を外の人の前で褒めるということをあまりしませんが、それは愛情が薄いからではなく、照れているためなのです。

似たような日本語に、「きまり悪い」があります。「照れる」のも「恥ずかしい」のも「きまり悪い」と言えますが、たとえば、部長と課長が密談しているところに偶然入ってしまったとか、一緒に映画を見ていて、自分が泣いてしまったのを相手に気づかれてしまった場合などに感じる感情です。つまり、見てはいけないものを見てしまったときや、自分の心の中を相手に知られてしまった場合などに、どう反応していいかわからない気持ちを言います。その場で「どう対応していいかきまりがつかない」から「きまり悪い」のです。

自分の気持ちをストレートに表現することが当然という文化の中で育った人は、照れたり、きまり悪いと思ったりする日本人の感じ方を不思議に思うかもしれません。

もっと深く

日本人は「内と外」(→P12)をはっきりと区別する感覚が強い。しかも、「内」、たとえば家庭内の事情などを、「外」に対してあまり明らかにしない傾向がある。もし、他人に話すにしても、得意になっていろいろと話したり、自慢したりするのをできるだけ抑えようとする意識が働くのがふつうである(「控えめ」→P〔判読不能〕)。

そのために、人から自分の家族のことなどを聞かれた場合、謙遜して低めて言ったり、悪く言ったりすることが多い。次の例のように、褒められたときには特にその傾向が強い。

A「お宅のお子さんは、とても勉強ができるそうですね」
B「いやいや、どら息子で、困ってるんですよ」

A「奥さんは、絵がお上手だそうですね」
B「とんでもない、うちのやつのなんて、幼稚園のお絵描き程度ですよ」

このように家族のことを褒められた場合、内心は嬉しいが、素直に「そうです」とは言えない。「照れくさい」ために、本心と反対に悪く言ったりするのである。

「照れ笑い」は、そのような心理状態のときに笑ってごまかすことをいい、「照れ隠し」というのは、自分のそういう照れる感情を隠すために、笑ったり、否定するような言葉を言ったりするような行動を指している。「照れる」というのは非常に日本的な感情と言えるだろう。

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第三章 周囲に配慮する


遠慮(えんりょ)

「遠慮」はもともと、「相手の都合や迷惑をよく考える」ことを指しますが、「遠慮する」と言った場合、多くは「よく考えた上で、何かをしない」ことを意味します。

例 1
先輩にすぐに連絡をとりたかったが、深夜だったので、電話するのは遠慮した。

例 2
上司「今晩、A君と飲みに行くけど、君も来ないか?」
部下「すみません。今日はちょっと、遠慮しておきます」

例 1 の「遠慮した」は、「深夜であることを考えて電話しなかった」という意味です。例 2 の「遠慮します」は、誘いを断るときによく使われます。本来、相手のことをいろいろ考えて「〇〇しません」という意味ですが、実際には、自分は「〇〇したくありません」の婉曲な表現として使われるのです。

例 3
A「さあ、どうぞ遠慮なく召し上がってください」
B「すみません。それでは、遠慮なくいただきます」

「(どうぞ)遠慮なく」は、人に何かすることを勧めたり、物をあげたりするときによく使われる表現ですが、相手が何も言わないのに、「遠慮なく」と言って勧めるのは、日本社会では「受け取る側は、当然遠慮する気持ちを持っているはずだ」と考えられているからです。

例 4
あの人はとても遠慮深くて、好感が持てる。

例 5
初対面でプライベートな質問ばかりするのは無遠慮すぎる。

「遠慮深い人」というのは、控えめ(→P110)で、つつましい行動をする人、という意味の褒め言葉です。反対は「遠慮のない人」、または「無遠慮な人」で、もちろん悪い意味に使います。

「無遠慮」に近い言葉に、「ずうずうしい」や「あつかましい」という言葉があります。

例 6
人のものを勝手に食べるなんてずうずうしい。遠慮ってものを知らないの?

人が迷惑しているのに、平気で何かをしたり、ものを頼んだりする態度を「ずうずうしい」とか「厚かましい」と言います。「遠慮深い」という言葉が褒め言葉に、「遠慮がない」が悪い意味になるように、日本人は人と人とが交際する上で、「遠慮」をとても大事なことだと考えています。

ですから、それほど親しくない人から何かおみやげをもらうような場合も、とりあえず遠慮して断り、さらに勧められてから、「それでは遠慮なく」と受け取るのがふつうです。

また、日本人はよく「親しき仲にも礼儀あり」と言います。これは、どんなに親しい友人でも、相手の立場や都合を考えることはとても大切だということです。

例 7
ここでタバコを吸うのはご遠慮ください。

例 7 のような表示は、町でよく見かけます。この「ご遠慮ください」という表現は、「〇〇しないでください」の意味で使われています。

もともと「遠慮する」というのは、「人の気持ちを考えて、自分で判断する」ということなので、人に「遠慮してください」と頼むのは間違いのように聞こえます。しかし、「〇〇しないでください」という言い方には、はっきりと禁止の意味〔判読不能〕があるのに対して、「ご遠慮ください」は、相手に判断を求めているニュアンスがあるため、一方的な禁止よりもやわらかく聞こえます。そのため、大勢の人に何かを伝えるときや、店がお客さんに何かを注意するときなどには、「ご遠慮ください」を使うことが好まれるのです。

もっと深く

「遠慮」という言葉は、もともと「遠い将来まで見通す」という意味の中国語であった。孔子の言葉をまとめた本である『論語』にも、「遠き慮なければ必ず近き憂えあり(遠い将来のことも考えないと、必ず近いうちに心配事が起きる)」という文章がある。その言葉が日本語に取り入れられ、現代ではむしろ「配慮」に近く、「周囲の人や相手がどう思うかについて、よく考えること、そしてその場にふさわしくない行動をしないこと」という意味が強くなった。日本人は、「目の前の相手との人間関係について配慮する」気持ちが強いからであろう。

日本人のこのような「遠慮する」態度は、ほかの文化圏の人からは「消極的」だと否定的な評価を受けるかもしれないが、反対にほかから見て「積極的」でいいと思われる行動も、日本人から見れば「無遠慮だ」と悪い評価を受ける可能性がある。

まさに「遠慮」は「相手のことを考えて」という意味があるために、人間関係の摩擦を少なくしようとする日本人の生活の中では、非常に重要な「潤滑油」の役割を担っている。

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気を遣う(きをつかう)

「気をつかう」というのは、相手が嫌な思いをしていないかどうか、いろいろと考え、注意をはらうことです。

日本人は、相手や周りの人が自分のことをどう思っているかということを、とても気にしながら行動しています(「人目」→P42)。

たとえば、人から何かをもらったときや、お礼を言うときに「すみません」をよく使います。

例 1
A「これ、旅行のおみやげです。どうぞ。」
B「すみません、気をつかっていただいて……。」

例 1 の「すみません」には、自分が相手に「気をつかわせた」ことに対して、悪いなあという気持ちと、相手が自分に「気をつかってくれた」ことに対するお礼の気持ちが含まれています。

日本人は、どこかに旅行に行ったときは、必ずと言っていいほど職場の人や友だちにおみやげを買ってきます。これも、自分だけ遊びに行ったことについて、ほかの人に気をつかっているわけです。そして、おみやげをもらったほうは、「すみません。お気づかいいただいて……」と言いながらもらい、次に自分が旅行に行ったときは、「この前おみやげをもらったから……」と言って、また相手に自分のおみやげを渡す……、このくり返しです。

つまり、日本人の「おみやげ文化」は、おみやげを渡すほうも、もらうほうも、相手に対して気をつかうことで、成り立っているのです。

このように日本人は、普段から身の回りの人に気をつかって生活しているのですが、自分より目上の人や「外」の人(「内と外」→P12)に対しては、さらに気をつかうことになります。

例 2
会議の席で社長が間違ったことを言ったが、みんな気をつかって知らないふりをした。

例 3
お客さんに気をつかいながら食べる豪華な接待の料理よりも、家族と気楽に食べる食事のほうがおいしい。

人に気をつかい過ぎて疲れることを「気疲れ」と言います。周りの人への気づかいは、人間関係を円滑にするために必要ですが、そのために気疲れしてしまう日本人も多いようです。

もっと深く

「気をつかう」や「気をつける」などの「気」は、もともと古い中国語である。「元気」とか「気分」などの熟語もそうだが、中国でも古くからさまざまな意味を持って使われていた。それが、日本語に取り入れられて、さらに多くの微妙な意味合いを持つ言葉が作られてきた。「気」という漢字一字を使った言葉だけでも、無数にある。

「気」は、精神のさまざまな働きを指し、使い方によっていろいろな意味が出てくるが、右の例はすべて「周囲や相手の人に配慮する、相手の立場や感情を考える」という意味である。

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人並み(ひとなみ)

どこの国の人であっても「恥をかく」のは嫌でしょうが、日本人は特に「恥をかく」ことを嫌います(「恥」→P47)。会議の場などで、日本人がなかなか発言しようとしないのは、ほかの人の意見がよくわからないうちに自分の意見を言って、みんなの意見と大きく違っていたら恥ずかしい、と考えるからです。そのため、自分の発言や行動について慎重になりがちで、人より目立つような行動を避ける傾向があります。

日本人が好んで使う表現に「人並み」があります。これは、文字通り「人と同じぐらい」という意味です。「人並みの生活」「人並みの暮らし」「人並みの給料」「人並みの能力」というように使います。

例 1
お金持ちにならなくても、人並みの生活ができれば十分です。

例 2
人並みの給料さえもらえれば、出世しなくてもいい。

子どもに「将来何になりたい?」と聞くと、「スポーツ選手になりたい」とか「会社の社長になりたい」といった答えがよく返ってきますが、大人になると、「人並みに幸せに暮らせればそれでいい」というような答えが多くなります。

また、実際にはかなり上手にできることでも、みんなの前で能力を聞かれたときには、「まあ、人並みです」と答えることがよくあります。

例 3
A「英語、お上手なんでしょう?」
B「いやいや、まあ、人並みですよ」

例 3 のように答えるのは、謙遜しているという理由もありますが、たとえいいことであっても、なるべく人より目立たないようにしよう、という意識が働くためです。

会議などで「あなたの意見は?」と聞かれると、「みなさんと同じです」などという発言が多いのも、こうした「人並み」を好む意識からだと言えるでしょう。周囲の人よりもお金持ちになったり、地位が高くなったりすると目立ってしまい、人から妬まれたり、恨まれたりする可能性が大きくなります。かといって、ほかの人より低いのも嫌なので、一番望ましいのは、「人並み」ということになるのです。

ただ、最近は国際化の流れや、インターネットの普及で自分の意見を述べる場がどんどん増えていることもあり、こうした考え方も、少しずつ変わってきているようです。

もっと深く

日本人は一般に、自分があまり目立たないように注意しながら生活している。

これらのことわざからもわかるように、出過ぎたり、目立ち過ぎたりすると、他人から反感を持たれると思うからである。他人と同じであることに安心感を持つのである。

「人並みが一番」という発想は、周囲の人たちに配慮しながら他人とのバランスの中で生きている日本人の、生活の知恵とも言える。

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空気を読む(くうきをよむ)

二〇〇七年頃に流行した「KY(ケーワイ)」という言葉があります。「K」は「空気(Kuuki)」、「Y」は「読めない(Yomenai)」の頭文字をとった略語で、「KYな人」とは、「空気が読めない人」のことを指します。この場合の「空気」とは、「その場の雰囲気や周りの人の気持ち」、「読む」は「考える・推測する」という意味です。つまり、「空気を読む」とは、周りの人の気持ちを考えて、その場に合った行動をすることです。

若者や子どもの間で、「あの人、KYだよね(=空気が読めないよね)」という言い方が悪口としてよく使われることからも、日本社会では子どものときから、周囲の人々に配慮しながら行動することが期待されている、ということがわかります。

例 1
この忙しい時期に自分だけ休みたいなんて、ちょっとは空気を読めよ。

例 2
A「失恋した田中さんの前で、鈴木さんが恋人の自慢話ばかりするから、困っちゃった」
B「鈴木さんって、ほんと空気読めないね」

日本人は、大勢の前では、自分の意見をはっきりと言わないことが多いため、外国人からすると、「何を考えているかわからない」と感じるかもしれません。しかし、空気を読むことが習慣になっている日本人の間では、言葉で言わなくてもお互いの気持ちをわかり合っていることがよくあります。これを「暗黙の了解(黙っていても、みんながわかっていること)」といいます。

ほかに、「以心伝心(言葉で言わなくても、相手と気持ちが通じていること)」や、「言わぬが花(大事なことは、全部言葉で言ってしまわないほうがいい)」なども好まれる表現ですが、このように日本人は、「言葉ではっきりと言わなくてもわかる」ことをとても大事に思っています。

「口は災いのもと(うっかり言ってしまったことが原因で、何か悪いことが起きる場合があるので、気をつけるべきだ)」ということわざもあります。

周りの人とあまり親しくない場合や、その場の空気がよくわからないときは、静かにして自分の意見を言わないか、人と同じようにするのがふつうなのです(「人並み」→P70)。

もっと深く

「空気を読む」という場合の「読む」は、何かを材料にして、はっきりしないことを推測する、という意味である。たとえば、「来年の世界の経済動向を読む」などと使う。

日本人は一般に、言葉ではっきりと言うことを避け、態度や表情などでさりげなく相手に伝えるのを好む傾向がある(「ほのめかす」→P115)。逆に、はっきりと言わなくても、相手が自分の意図や気持ちをわかってくれることを非常に喜ぶ。それは、相手が自分のことをよく理解してくれていると思うからである。そのためには、相手の意図や気持ちを推測できる観察眼を持っていることが必要である。

「空気を読む」に似た言葉に、「相手の腹を読む」という言い方がある。この場合の「腹」とは、表面には見えない意図、考えを指していて、それを推測するという意味である。「相手の腹(=考え)がわからない」とか「腹を決める(=意思を決定する)」とか、「腹の探り合い(=お互いがいろいろと相手の意図を推測しあう)」、「腹にもないことを言う(=全然思っていないことを言う)」などと、日常生活の中でよく使われている。

「そのことは腹にしまっておけ」というのは、ある考えや意図を表には出さないで、自分の心の中にしまっておく、ということである。

これらは、はっきりと主張することを好まない日本人の感性がよく表れた表現であると言えよう。

「目は口ほどにものを言う(=目を見ていれば口で言ったのと同じように相手の思っていることがわかる)」と言われるが、これは、相手の目を見て判断できる観察力がなければできないことである。

日本において、「空気が読める」ことは、社会人として必要なことなのである。

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コラム 日常の会話から① 「いってらっしゃい」 あいさつはとても大切

例:

朝、近所の人と道で会って……

伊藤「おはようございます」
山田「おはようございます」
伊藤「今日は寒いですね」
山田「そうですね。すっかり冬ですね」
伊藤「これからお仕事ですか」
山田「ええ」
伊藤「お気をつけて。いってらっしゃい」
山田「いってきます」

これは、よく見られる日本の朝の会話です。別に重要なことを言っているわけではないのですが、このようなあいさつは日本人にとって、とても気持ちのいいものです。どの国にもあいさつの言葉はありますが、日本人はあいさつをとても大切にし、季節や天候までも話題にし、人に会ったときや別れるときなど、外国人から見たら驚くほど、丁寧にあいさつします。それは日常の生活や人間関係を大切にして生きている日本人の感性の表れなのです。

たとえば、もしあなたが朝、会社で上司に会ったとき、「おはようございます」と言わずに黙っていたら、その上司は、あなたは体の具合が悪いのか、それとも自分に何か不満をもっているのか、と考えるでしょう。逆に自分があいさつしたのに、相手が返事をしてくれなかったら、とても気になります。それほど日常生活の中であいさつは大切なものです。

あまり深く考えているわけではないのですが、日本人はあいさつすることで、お互いに相手の存在を認め合っているのです。特に会社などでは、仲間同士で「いってらっしゃい」「おかえりなさい」と言うことで、みんなが「うち」(→P12)の意識を持つという意味もあるでしょう。

また、「いただきます」や「ごちそうさまでした」というような食事のときのあいさつは、ほかの言語にはあまりないようですが、これは、作った人たちへの感謝や、周りへの合図など、いろいろな意味が含まれています。日本人はこのようなあいさつをすることを小さい頃から「しつけられている」(→P23)ため、毎回意味を考えて言っているわけではなく、習慣として自然に口から出てくるのです。


第四章 人間関係を大切にする


付き合い(つきあい)

「つきあい」とは、動詞の「つきあう」からできた言葉です。「つきあう」は、もともと「交際する」という意味ですが、人との交際を大切にするということから、「(自分の都合よりも相手の都合に合わせて)その人と一緒に何かをする」という意味も持つようになりました。

例 1
山田君は十年近くつきあった彼女と、最近別れたそうだ。

例 2
疲れていたので早く帰りたかったが、先輩につきあって飲みに行った。

例 1 は「交際する」という意味ですが、例 2 は、先輩との人間関係や「義理」(→P166)を重視して飲みに行った、という意味です。このように、人間関係を重視して人とつきあうことを「(お)つきあい」と言います。

例 3
父は取引先とのおつきあいで、毎週末ゴルフに行っている。

例 4
あいつはつきあいが悪いから、もう誘うのはやめよう。

日本人は、友人や仕事関係の人から集まりや食事などに誘われた場合、「自分が本当に行きたいかどうか」よりも、つきあいを重視して参加するかどうかを決めることがよくあります。「前回断ったから、今回は行かなきゃ」とか、「本当は都合が悪いけど、先輩が出るなら私も出ておこう」などと考えます。

どうしても都合がつかないときは、「顔だけ出します」という返事もよくします。「顔を出す」というのは、長くいないで、顔を見せたらすぐに帰る、という意味です。「すぐに帰るぐらいなら、参加しなくてもいいのでは?」と思うかもしれませんが、相手も出席したかしなかったかに注意しているので、顔を出すのと出さないのとでは、相手への印象が全然違うのです。

何度も誘いを断ると、「つきあいが悪い」人だと思われてしまいます。人間関係を重視する日本社会において、人から「つきあいが悪い」と思われることは、いろいろと不利になることが多いので、誘いを断る場合でも、「つきあいが悪い」と思われないように気をつけるのです。

会社員が仕事帰りに上司や同僚とお酒を飲みに行くことは、「飲みニケーション」と呼ばれることがあります。「飲む+コミュニケーション」からできた言葉で、職場を離れ、リラックスした場で人間関係を円滑にすることを目的として、お酒を一緒に飲むことを指します。一時期は死語になりつつあったこの言葉も、近年、社内のコミュニケーション不足や職場でのストレスが問題視されるようになり、再び注目を集めるようになってきました。

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愛想(あいそ)

「愛想(あいそ・あいそう)」とは、相手からよく思われるような態度のことで、具体的にはあいさつや言葉づかい、表情などを言います。サービス業の人などには特に必要なことですが、日本人の日常の生活の中でもよく見られます。

例 1
この店の店員は、みんなニコニコしていて愛想がいい。

例 2
鈴木先輩はいつも無愛想だから、声をかけづらい。

「愛想がいい(人)」とは、表情や態度などが明るく、親しみやすい人のことです。反対に、あいさつしたり話しかけたりしても、返事がなかったり、無表情だったりするような人は、「愛想が悪い」「愛想がない」または「無愛想だ」と言います。

ただし、「愛想がいい」という言葉は、皮肉として使われることもあります。

例 3
彼女は愛想がいいばかりで、肝心なときには助けてくれない。

「愛想」は悪いよりもいいほうがいいに決まっていますが、それが本心からでなく、表面的なものだと逆に悪い意味になります。たとえば「愛想笑い」という言葉がありますが、これは「本当に楽しいとか、おもしろいとか思っているわけではないが、相手といい関係を保つために無理に笑う」ことです。

例 4
課長は部長の機嫌をうかがって、いつも愛想笑いをしている。

愛想にはほかにいろいろな使い方があります。

例 5
何度も借金を頼まれて、彼には愛想がつきた。

「愛想がつきる/愛想をつかす」とは、それまでは相手に対して好意を持っていたのに、何かが原因でその人に「愛想を見せる気持ちがなくなった」ということ、つまり、親しみや好意を持てなくなった、という意味です。

「愛想」と似ている言葉に「愛嬌」があります。「愛嬌」は子どもや女性などが見せるかわいいしぐさや表情をいいます。「この子は愛嬌がない」とか、「彼女は美人ではないが愛嬌のある顔をしている」などと使われます。

「女は愛嬌、男は度胸」という言葉もありますが、女性は特に、周りの人に愛想よくして好かれるほうが望ましいと思われているわけです。

周りとの人間関係を重んじる日本社会では、愛想よく人と接することは大切ですが、「愛想笑い」だけにならないように注意が必要でしょう。

もっと深く

不思議な日本語がある。寿司屋などで、勘定することを「お愛想」という。

客からお金を取るのに「愛想」というのは変だと思うが、客にお金を出させて申し訳ない、と気をつかって言ったのが始まりだとか、勘定は店が最後にする「サービス」だから「お愛想」と言ったとか、理由はよくわかっていない。

いずれにしても「愛想」は、その意味からいって、客をもてなすために、店の人がやるべきことである。

ところが、勘定のとき、客から店の人に、「お愛想をお願いします」と言うのをよく聞く。「愛想」は、本来、店のほうがやるべきことなのだから、客から「お愛想」と言うのは、少し変な使い方と言うべきだろう。

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礼儀(れいぎ)

日本の社会において、人間関係の面から見て非常に大切な考え方に、「義理」(P166)や「遠慮」(P60)と並んで、「礼儀」があります。

「礼儀」とは、基本的には、相手に敬意を表すことです。日本では、年齢や立場の上下、相手との親しさや内と外の関係などによって礼儀作法が大きく異なります。日本人が礼儀に厳しいのは、日本人のまじめな性格や、武士の社会が長く続いたことが理由だと思われます。

日常のあいさつや言葉づかい、お辞儀をする動作なども礼儀作法に含まれますが、必要なときにそれをしないと、「礼儀知らず(=礼儀を知らない人、失礼な人)」だと思われてしまうでしょう。

例 1
隣の家のご主人はしつけが厳しいので、子どもたちはみな礼儀正しい。(「しつけ」―P230)

例 2
新人なのに先輩にあいさつもしないで帰るなんて、なんて礼儀知らずなやつだ。

日本人は、日常生活の中で礼儀を非常に大切にしていて、失礼な言動に対してかなり敏感です。特に、あいさつに関しては、家庭や学校で厳しくしつけられます。

たとえば、人の部屋に入るときや出るとき、職場でほかの人より先に帰るときなどには、「失礼します」とあいさつするのがふつうです。一般的なあいさつ表現にすぎないと思うかもしれませんが、何も言わないで他人の部屋に入ったり、人より先にその場から離れることは失礼だという意識が日本人の心の底にあります。大切なのは、そのような意識そのものよりも、一言「失礼します」というあいさつが言えるかどうかということです。たとえどんなに親しくしている人でも、部屋に入るときや、先に帰るときなどにあいさつがないと、非常に失礼な印象を与えることになるでしょう。

日本では、会社の新入社員の研修や、アルバイトの教育でも、まず初めにあいさつの仕方を厳しくトレーニングします。それほど、日本社会においてあいさつは重視されているのです。礼儀には、敬語やしぐさや態度、マナーなど、いろいろな要素がありますが、もっとも基本的でもっとも重要なのはあいさつだと言えるでしょう。(「あいさつはとても大切」―P80)

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剣道や柔道などのような伝統的なスポーツの世界では、「礼に始まり、礼に終わる」とよく言われるが、一般社会においても「礼儀」を尊重する考え方はかなり強い。

一方、「無礼講」という言葉がある。「無礼」とは「失礼」の少し硬い言い方で、「今日の宴会は無礼講だ。遠慮なく飲んでくれ」のように使う。目上・目下とか年齢の上下とか、堅苦しい礼儀作法は抜きにして飲んでほしい、ということだ。しかし、これは目上の人からの言い方で、本当に無礼な態度をとってもいい、ということではなく、「気楽に」という程度の意味である。

また、「慇懃無礼」という言葉もある。「慇懃」は丁寧で、礼儀正しい態度のことだが、「表面上は丁寧に接しても、内面では相手を見下している」とか、「うわべだけ過剰に丁寧にして心が伴っていない様子」を指す。このように、形だけの礼儀を重んじても、心が伴っていないと、それは結局「失礼」になるのである。

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本音と建前(ほんねとたてまえ)

日本人は、一般に相手の立場や周りの状況を考えて、自分の感情を抑えたり、意見を言うのを遠慮したりします。特に、会議など、多くの人の前で自分の意見を言わなければならないようなときには、とりあえず誰も反対しないような無難な意見を言うことがあります。このように、誰もが賛成するような公式的な意見や原則を「建前」と言います。「建前」の反対語は「本音(その人が本当に思っていること)」です。ビジネスの場面などでは、よくこの「本音と建前」が使い分けられることがあります。

例 1
A社が今度新しく始めるサービスは、建前では顧客のためと言っているが、実際は社内の事業改革が目的のようだ。

例 2
会議に社長がいると、参加者はみんな建前ばかりで、なかなか本音を言わない。

日本人の会議は、あまり活発に意見が出ない、とよく言われます。出席者が建前ばかり言うような状況もよくあります。会議や公式の場で個人的な意見を述べ、他人と意見がぶつかったりすることを避けようとする気持ちがあるからでしょう。「和」を大切にしようとする気持ちが働くからとも言えます。

ところが、いつも「建前」ばかり言っていると、「あの人は建前ばかりで、いつまでたっても本音を言わない」と批判されることになります。

また、自分の考え方をいろいろと変えたりすると、「あの人は建前をすぐ崩す」といって信用されなくなります。

建前ばかり言っていたり、逆に本音のぶつけ合いだけでは、いつまでたっても議論が前に進みません。そこで、事前に参加者の意見を聞き、対立が表面化しないように調整を行い、会議が始まる前に大体の方向を決めておくこともあります。これは非常に日本的な方法で、「根回し」と言われているものです。

本音と建前はビジネスの場面だけでなく、日常生活でも上手に使い分けられます。

例 3
A「みんなケンカしないで、仲よくしないといけませんよ」
B「そりゃそうだけど、ひどい悪口を言われたものだから……」

例 3 の場合、Aの発言が建前で、Bの発言が本音です。建前は、このように誰にも反対できないような当然のこと、原則的な意見なのです。

もっと深く

人間は、表向きに言う意見や考え方とは別に、あまり外に出さない、その人の本当の考えや感情を持っていることがよくある。その本当の気持ちや意見、考えなどを「本音」と言う。ふつう、日本人はそう簡単に本音を言わないと思われている。だから、本音を言うことを、「本音を吐く」とか、「本音を漏らす」などと言うのである。

「本音」の「音」というのは、人間の本当の感情が表れるときに出る声のことで、「音をあげる(苦しさに耐えられず声を出すこと)」や、「ぐうの音も出ない(何も言えない)」という表現もある。

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お陰様(おかげさま)

「おかげ(さま)」というのは、もともとは、神社やお寺に助けを求めてお願いに行き、いい結果になったとき、神様や仏様に感謝して使う言葉でしたが、現在では、人から援助や協力を受け、いい結果が生まれたことに感謝して言います。

例 1
先生「大学合格おめでとう!」
学生「ありがとうございます。先生のご指導のおかげです」

相手に感謝の気持ちを表すとき、単に「ありがとう」と言うよりも、「あなたのおかげで」と言ったほうが、相手がしたことが自分の役に立ったということが強調されるため、言われたほうは嬉しく感じるものです。

相手に対して感謝の心を持ち、それを上手に表現することは、人と人の「つきあい」(184)の中でとても大事なことです。日本人は日常生活の中で、こうした感謝の言葉を大切にしています。

例 2
A「こんにちは。お元気そうですね」
B「ええ、おかげさまで」

例 3
A「お母さんの具合はいかがですか」
B「おかげさまで、もうすっかりよくなりました」

「おかげさまで」という言葉は、例 2 のように、ほとんどあいさつの代わりに使われる場合や、例 3 のように、具体的に相手が何かしたわけではないのに使われることがよくあります。この場合は、相手に何かをしてもらったことへの感謝というよりも、日常の相手の好意や親切に感謝しているということを表しているのです。

もっと深く

「おかげ」は、いい結果が生まれたときに、その原因となった他人からの援助や協力に対して感謝の気持ちを表すのが本来の使い方ですが、よくない結果や影響を受けたときに、不満や皮肉の意味を込めて使われることもあります。

「A君が道を間違えたおかげで、10分で着くところを一時間もドライブさせられちゃったよ」

この場合は、本当は「A君のせいで」と言いたいのを、皮肉を込めて「おかげ」を使っているのです。

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コラム 日常の会話から❷ 「なるほど」! 相づちを打つ

例:

会社の同僚と……

佐藤「鈴木さん、出張だったそうですね」
鈴木「うん、今度の新商品の売り込みで、中国へ行ってたんだ」
佐藤「へえ、そうですか。で、どうですか、反応は……」
鈴木「そうだね。なかなかいいよ。いま中国は景気がいいからね」
佐藤「そうなんですか。じゃ、ずいぶん売れそうですね」
鈴木「うん。それになんといっても、人口が多いからマーケットも大きい」
佐藤「なるほど……」
鈴木「1%の人が買ってくれても、一千万個は売れる計算になる」
佐藤「たしかに……」

どこの国でも、人と人との会話は大切ですが、日本人は一般に、会話はできるだけ相手に合わせるように気を配ります。ですから、話す人が気持ちよく話せるように、聞いている人は、「ちゃんと聞いていますよ」ということを言葉や表情、態度などで表します。日本人がよく、話を聞きながら、「うん、うん」とうなずいたり、「へえ」とか「なるほど」などと言うのは、そういう意味があるのです。

これを、「相づちを打つ」と言います。

「相づちを打つ」という言葉は、昔、鉄を鍛えるときに、二人ペアで、相手に調子を合わせてトンテン、カンテンと槌で熱い鉄を打ったことから、生まれた言葉です。鉄を打つのと同じように、会話が調子よく進むよう、相手に合わせて何かを言うことを表しています。

人によっては、日本人がたびたび相づちを打つのをうるさいと思ったり、話の邪魔だと感じたりするかもしれません。けれども、「相づちを打つ」ことは、相手に「あなたの話にとても興味がありますよ」ということを伝え、「一緒に会話をうまく進めましょう」という気持ちを表しているのです。


第五章 表現を抑える(ひょうげんをおさえる)


控えめ(ひかえる)

「控えめ」は、「控える」という動詞と、「多め」「少なめ」などと同じように、程度を表す「め」からできた言葉です。「控える」とは、程度や行動が極端にならないようにすることで、「お酒は控えてください」というのは、「飲まないでください」と同じ意味です。

例 1
体の調子が悪いときは、お酒は控えめにしたほうがいいですよ。

「お酒は控えめに」というのは、「飲んでもいいけれど、いつもより少なく」「度を越さないように注意して」という意味です。食品のパッケージにもよく「塩分控えめ」「油分控えめ」という表示が使われます。

では、人に関して「控えめ」と言うときは、どのような人を指すのでしょうか。

例 2
その選手は優勝したのに、言葉が控えめで好感が持てる。

例 3
妻は、夫の後ろにつつましく控えている。

日本人の間では、自分の意見をどんどん言ったり、自分の感情や欲望を隠さずにそのまま出したりすることは、あまり好まれません。特に大人の場合、相手の立場や周りの状況を考えて、自分の感情はできるだけ抑えるべきだと考えられています。また、成功したり、高い地位についたりしても、そのことを自慢したり、得意になったりしないで、謙虚な態度でいることが好まれます。

このように自分の感情を抑えた、物静かな感じの人を「控えめな人」と言います。

「控えめ」に近い言葉に「つつましい」があります。この言葉も「控えめ」と同じように、自分の感情を抑えた謙虚な態度の人に対して使われます。「つつましい」は、もともと古語の「慎む」(現代語の「慎む」)から来た言葉です。「慎む」には、「控える」という意味のほかに、「間違いがないように気をつける」という意味もあるため、「つつましい」という言葉は、「控えめ」よりもさらに慎重で、周りの人に遠慮(P60)した態度というイメージが強くなります。

例 3 は、目立たないように、静かに夫の後ろにいるという意味ですが、日本の古い伝統では、他人の前では女性が男性を立てるという習慣があり、そのような日本の習慣にしたがった、控えめで物静かな女性を、好ましく表現する場合に使われます。しかし男性についても、「非常に謙虚でつつましい態度の人」などと言うことがあります。

自分の感情を抑え、謙虚な態度を好ましいと考える日本人にとって、「控えめ」や「つつましい」というのは、非常にいいイメージを持った言葉なのです。

もっと深く

たとえば、あることについて専門的な知識がかなりあっても、問われない限り自分から口を出さないのが「控えめ」なのに対して、頼まれもしないのに自分から積極的に出てきて口を挟んだりすることを「出過ぎる」と言う。そういう人は、「出過ぎたまね(行為)をするな!」と言って批判されることがある。

さらに、本当はそれほど専門的な知識も経験もないのに、自分から解説したり、人にアドバイスしたりするような行為を「でしゃばる」といい、そういう人を「でしゃばり」という。子どもが大人の会話の間に入って発言したりすると、「おまえはよくわかっていないんだから、でしゃばるんじゃない!」などと、叱られる。「控えめ」であること、「つつましい」態度が日本人としての美徳であるだけに、「でしゃばる」人は、周りから好感を持たれない。

さらに「しゃしゃり出る」には、自分の立場を考えないで、無遠慮に人の前に出てくるとか、関係ないのに口を挟む、などというイメージがあって、「でしゃばる」よりさらに強い語感がある。「おまえなんかが、しゃしゃり出る場ではない、引っ込んでいろ!」というのは強い非難の言葉である。

単語ノート


仄めかす(ほのめかす)

外国人は、よく日本人のことを「曖昧だ」とか「何を考えているか、よくわからない」などと言います。それは日本人が、人前で感情をはっきりと表さなかったり、相手に遠慮して自分の意見をはっきり言わなかったりするからでしょう。

日本には、「以心伝心(言葉で言わなくても、態度などから、自分の気持ちが自然に相手に伝わる)」や、「目は口ほどにものを言う(目を見れば口で話すのと同じぐらい相手の気持ちがわかる)」ということわざがありますが、自分の気持ちを言葉ではっきり言わなくても、態度や様子で相手がわかるものだと思っていることが多いのです。

自分の思っていることを直接はっきりと言わなかったり、態度や表情などで示すことを、「ほのめかす」と言います。相手のほうも、はっきりとではないけれども、なんとなく「言いたいことはこうではないか」とわかるのです。

日本人は、大事なことでもはっきり言わないで、相手が自分の気持ちを推測し、理解するのを〔判読不能〕好む傾向があります。反対に、はっきりと言葉に出して言うことを「あからさま」だといって嫌うことがよくあります。なぜなら控えめ(→p.110)であることがいいと考える日本人から見れば、あからさまな態度というのは、あまり好ましいことではないからです。

例 1
上司から、職場の異動をほのめかされた。

例 2
彼女は彼と目が合うと、あからさまに視線をそらした。

「あからさま」というのは、「明るい」と「さま(様子)」からできた言葉で、明らかだ、はっきりと表面に出ている、という意味です。日本社会では、自分の感情や好き嫌いをはっきりと外に出すことは、相手に対して失礼だとか、品のないことだと思われています。ですから、あからさまに態度に出すということは、多くの場合、悪い意味を含んでいます。例 2 の場合、女性が男性を嫌っていることをはっきりと態度で出したことを意味しています。

その国の文化や習慣によって、タブーとされることには違いがありますが、日本では一般に、お金のことや性的なこと、また自分の欲求などについてあからさまに言うのは、恥ずかしいことだと考えられているのです。

「ほのめかす」が行為であるのに対して、はっきりとはわからない、あまり目立つようにしない態度や様子のことを「さりげない」と言います。

例 3
彼女のさりげないおしゃれには、好感が持てる。

例 4
課長はさりげなく部下に注意を与えた。

「さりげない」は、もともと「そのような様子でない」「そのようには見えない」という意味で、行動や様子が目立たないようにすることです。ですから、例 3 は、彼女のおしゃれがあまり派手で目立つものでなく、自然ないい感じだ、という意味であり、例 4 は、周りの人からはわからないように注意した、という意味で、課長の配慮が感じられます。

相手に対してはっきり言葉で言わないで、態度や表情などで自分の気持ちを表現するやり方を日本人はとても好みます。ですから、相手の表情や身振り手振りなどは重要なサインなのです。

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日本語の婉曲な表現には、ほかにも次のようなものがある。

例 1
あの人忙しそうだから、私たち、今日行くのは遠慮したほうがいいかもしれないね。

例 2
彼はこれみよがしにお金を投げて渡した。

例 1 の「遠慮する」(→p.60)は、「行かない」を婉曲に表現した言い方である。

「これみよがし」は、もともと「これを見てほしい」という意味の古語だが、「あからさまに」は言わないけれど、表情とか態度から相手にわかるようにすることである。例 2 は、本当はお金を渡したくないという不満な気持ちを、お金を投げるという行動で相手にわからせようとしたのである。

また「あてつけ」は、直接言わずに別のことや人を話題にして、婉曲に相手にわからせるやり方である。

例 3
A「彼女は、とってもきれいだね」/B「何?それって私へのあてつけ?」

例 3 は、Aさんが別の女性を美人だと褒めたので、Bさんは自分が美人でないと言われたと考えて、怒っているのである。

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コラム 日常の会話から 「ちょっと」:表現をやわらかく

例:

友だちと

春子「夏子、この服どう?似合う?」
夏子「うーん、ちょっと……なんとなくサイズが合ってないような……」
春子「そう?じゃあ、こっちのは?」
夏子「うーん、たぶん、もうちょっと薄い色のほうがいいかも……」
春子「そうかあ。じゃあ、買うのやめようかなあ」

日本人は、友だちとの日常の会話でも、「ちょっと」とか「なんとなく」とか「たぶん」のような曖昧な言い方をしたり、途中までしか言わなかったりします(「ほのめかす」→p.115)。外国人に「日本人は曖昧で、何を言っているのかよくわからない」と思われるのはそのためでしょう。しかし、それは自分の意見をはっきり主張したり、相手の言うことをはっきりと否定すると、相手が嫌な思いをするのではないか、という配慮があるからなのです。「ちょっと」や「たぶん」といった言葉には、相手に与える印象をやわらかくする効果があります。

上司やお客さんなど、特に気をつかう(→p.66)必要がある相手に対しては、このような表現が多く使われます。

そのほか、日本語には、自分の意見・主張をやわらかくするための言葉や表現が、数え切れないほどあります。このような主張をやわらげる表現は、本来、自分の意見をはっきり言ったり、相手の意見を批判したりするのが当然の討論の場でも、しばしば見られます。

そこには、強く主張することによって相手を傷つけたり、相手から強く反論されたりするのを避けたいという意識が働いているのです。多くの人が日常、無意識のうちに「ちょっと」や「たぶん」を使っていますが、これらは、まさに日本人の感性が色濃く表れた言葉だと言えるでしょう。


第六章 精神主義を好む


頑張る(がんばる)

日本は、狭い国土・少ない資源にもかかわらず、第二次世界大戦後、世界でも上位の経済大国に成長しました。その理由としてよく挙げられるのが、日本人の勤勉さやまじめさです。日本人が「がんばる」という言葉をよく使うのも、そのことと関係あるでしょう。

例 1
高校生になったら、勉強もスポーツもがんばります。

例 2
上司「今月の売上目標、月末までに達成できるのか?」
部下「はい。達成できるよう、がんばります!」

学生も、会社員も、政治家も、決意を表すときには、「いい成績がとれるように、がんばります」、「目標達成のために、がんばります」、「国民のために、がんばります」と、とにかく「がんばる」を使います。例 2 のように、実際には難しいと思っている場合でも、「できません」ではなく、前向きな姿勢を示すために、「がんばります」と答えます。また、相手を励ますときや応援するときにも、いつも「がんばれ」が使われます。

例 3
優勝を目指して、がんばってください!

例 4
A「今晩、ついに彼女にプロポーズすることにしたよ」
B「そうか、がんばれよ!」

「がんばる」は、本当は、「目標達成のために、困難に耐えて努力し続ける」という意味です。すでに一生懸命努力している人に対して、「がんばれ!」と言うのは、「努力が足りない」という意味に感じられるかもしれません。しかし、日本人が「がんばれ!」というのは、もっと努力するよう相手に命令するのではなく、「あなたを応援しています」という気持ちの表現なのです。

例 4 の場合は、英語の「Good luck」に近い軽い意味と考えていいでしょう。ですから、「がんばれ!」と言われたら、「はい、がんばります!」と返事をすれば、「応援ありがとうございます」というメッセージになります。

日本人の会話でよく見られる、「がんばって!」「がんばります!」というやりとりは、もともとの意味で考えるよりも、応援する人とされる人の「決まり文句」だと受け取ったほうがいいでしょう。

「がんばる」に近い言葉に「無理する」(→p.134)があります。「無理する」というのは、自分の能力や体力の限界を超えてでも、何かをやろうとすることです。すでに十分がんばっている人に対して、「がんばれ!」と言うのはかわいそうなので、応援する人は「無理しないでね」と言うこともよくあります。しかし、そう言われると、「無理してでも、がんばります!」と返す人が多いのも、日本人らしい反応と言えるでしょう。

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ルース・ベネディクトは「菊と刀」の中で、太平洋戦争の頃、アメリカの物量作戦に対して日本人は精神力で勝とうとしたことを取り上げ、それを日本的特徴だと述べている。今でも、日本人は精神主義を好み、何か問題にぶつかったときやつらいときに、とりあえず「がんばります」や「努力します」と言うことが多い。

しかし、そのような日本人の「がんばる」精神が原因で、二〇〇〇年代から会社員の過労死やうつ病が社会問題となってきた。一九六〇年代の高度経済成長期、日本の会社員は「働き蜂」や「企業戦士」と呼ばれるほど、一生懸命に働いたが、最近の企業は、社員が働き過ぎないように残業を禁止したり、休暇をとらせたりするようにしている。ただ、それでもなお、日本人にとって「休む」というのは罪悪感のある言葉であり、会社から休めと言われても、なかなか休もうとしない人が多いのも事実である。

有名な言葉に、「精神一到何事か成らざらん」(心から努力すれば、何でもできるものだ)、「為せば成る為さねば成らぬ何事も」(何でも、本気でやれば、きっとできるものだ)というのがあるが、これらの表現も日本人が好むものである。

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根性(こんじょう)

日本人は「がんばる(→p.124)」とか「努力」という言葉をよく使うように、「根性」という言葉もよく使います。「根性」とは、苦しいことやつらいことがあっても、それに負けたりあきらめたりしないで、やり抜く意志、耐え抜く精神力のことです。

例 1
あの子はちょっと苦しいとすぐに練習をやめる。まったく根性がない。

例 2
売り上げ目標を達成できないのは、根性が足りないからだ!

「根性」は、特にスポーツの世界でよく使われます。練習がつらくても耐えてがんばる人は根性がある人、苦しいとすぐにあきらめてしまうような人は根性がない人です。監督やコーチが選手を指導するときに、「がんばれ」よりもっと厳しい表現として、「もっと根性を見せろ!」のように言うこともあります。

スポーツの世界以外でも、たとえば例 2 のように、会社で上司が営業成績の悪い部下に対して、「根性が足りないから成績が悪いんだ!」と言って怒るというようなことが、昔はよくあったようです。このような「根性があれば何でもできる」という考え方は、「根性論」と呼ばれます。合理性や便利さが重視される今日では、根性論はほとんど死語となっていますが、今でもなお、「努力が一番大事」という考え方は、日本人の心の底に残っていると言えるでしょう。

例 3
勉強もしないでいい成績をとろうなんて、根性の曲がった考え方だ。

例 4
お前みたいな人間に教えてやることは何もない。根性を入れ替えて出直してこい!

「根性」は、もともとは仏教語で、「その人が持って生まれた性質」のことを指す言葉でした。そのため、今でも、性格が悪いことを「根性が悪い」とか、「根性が曲がっている」と言います。また、「よくない性格を元から改める」という意味で、「根性をたたき直す」や「根性を入れ替える」などの表現もあります。

このように、「根性」は、「性格」よりももっと深い人間性を意味しています。また、「根性」と同じような意味で使われる言葉に「意地」があります。「意地」は、「男の意地を通す」とか「意地を張る」などのように、自分の考え方や態度を変えずに、何としてでも最後まで通そうとすることで、頑固なイメージがあります。それに対して、「根性」は、困難に負けないで最後までがんばる、耐え抜く精神力を意味していて、もっと人間性の深いところにあるもの、という感じがします。

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日本のアニメやドラマのジャンルのひとつに、「スポ根」というのがある。これは「スポーツ根性もの」の省略で、「スポ根アニメ」や「スポ根ドラマ」などと言う。ストーリーは多くの場合、根性があるスポーツ選手が、厳しい練習に耐えてがんばり続け、最後には試合で勝利する、というようなものである。

根性をさらに強調して、「ど根性」という言葉もある。ある調査によると、一九九〇年代までは、「根性」「努力」「忍耐」といった言葉が日本人の好きな言葉の上位に入っていたが、現在ではそれらの言葉の順位は大きく下がり、代わりに「ありがとう」や「思いやり」といった「優しい」言葉が好まれているそうである。

このようなことからも、「根性論」はすでに過去の言葉になったように見えるが、「結果よりも過程が大切」「勝つことよりも、そのために努力することがすばらしい」というような考え方は、いまだに家庭や学校教育で強調されており、現在でもなお、日本人の重要な価値観として受け継がれている。

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無理(むり)

「無理」は、もともと、「道理が無い」ということで、道理に合わないこと、筋が通らないことを言います。「無理が通れば、道理がひっこむ」ということわざがありますが、これは、道理に合わないことが通るような世の中になると、正しいことが行われなくなる、という意味です。

例 1
こんな成績では、親が心配するのも無理はない。

例 2
それは無理な相談だ。

例 3
お忙しいのに無理を言ってすみません。

「無理はない」とは「道理に合わないことではない」、つまり「当然だ」「もっともだ」という意味になります。例 2 の「無理」は「道理に合わないこと」、つまり「できないこと」だと言っているのです。

例 3 の「無理を言う」は、ふつうはできないような難しいことを要求したり、お願いしたりするときに使います。多くは、「無理を言ってすみません」という形で使われます。

例 4
体の調子がよくないときは、あまり無理しないでください。

例 5
少しぐらい無理してでも、絶対にこの仕事は最後までやり遂げたい。

例 6
ちょっと無理し過ぎなんじゃない?たまには休んだら?

困難なことを、努力してなんとかやろうとすることを、「無理する」といいます。

「無理しないでください」というのは、「がんばってください」(→p.125)よりも優しい表現として、誰かを励ましたり、慰めたりするときによく使われます。しかし、そう言われても、「少しぐらい無理してでもがんばります」という返答もまた、よく使われます。

「無理」が「できないこと」という意味なのに対して、「無理してでもやる」という表現が好まれるのは、やはり、「努力」や「根性」を好む日本人の精神主義の考え方があるからだと言えるでしょう。ただ、あまりがんばり過ぎると、「無理し過ぎて体を壊した」ということになりかねません。

過労死やストレスが社会問題となっている今日では、無理せず休むことや、ワーク・ライフ・バランスを考えて働くことも、多くの企業では重要視されています。

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修行(しゅぎょう)

「修行」というのは、もともと仏教の言葉で、僧が滝に打たれたり、山を歩いたりして、自分から仏教の真理を求めて、苦しい訓練をすることを指す言葉でした。今でも、本来の意味で使うことはもちろんですが、「修行」は、学問や芸術、技術などを身につけるために、集中的にトレーニングすることを指すようになりました。

例 1
一人前の寿司職人になるためには、少なくとも十年間は修行が必要だ。

修行という言葉は、「練習」や「トレーニング」と比べて、もっと厳しいイメージがあります。「料理の練習」と「料理の修行」、「剣道の練習」と「剣道の修行」とでは、聞いた人が想像する練習の内容や環境が異なります。「修行」は「練習」よりも、もっと厳しく、集中して行うもので、精神的な訓練の意味も持っています。

ですから、修行と聞いて多くの人がまず思い浮かべるのは、仏教の僧か職人でしょう。職人は一人前になるまで、自分の師(先生)から技術だけでなく精神的なことまでも、ときには一緒に生活をしながら、時間をかけて学びます。このような場合、「練習」でも「トレーニング」でもなく、やはり、「修行」が一番ふさわしい表現だと言えるでしょう。

「武者修行」という言葉もよく使われます。「武者」とは武士のことです。「武者修行」とは、武士が武術を究めるために、各地を回り、ほかの武士と命がけの試合をすることでしたが、現代では、どこか遠い所へ行き、何かを集中的に学ぶことに使われるようになりました。

例 2
その音楽家は、ヨーロッパで二年間の武者修行をし、音楽家としての腕をさらに磨いた。

例 2 のように、「ヨーロッパで音楽の武者修行をした」というと、「ヨーロッパへ音楽の勉強に行った」というよりも、その途中の苦労や努力が強く感じられます。また、技術だけではなく、精神的なことも一緒に学んだというニュアンスがあります。

日本での楽な生活を捨てて、言葉も習慣も違う苦しい環境に自分の身を置く、という意味で、「海外に武者修行に行く」と言う若者も多いようです。実際は、「修行」とは言えない過ごし方をしている人も多いようですが、また、何か失敗した人に対して、日本人はよく冗談で、「修行が足りない」と言います。

例 3
そんな簡単なこともわからないなんて、まだまだ修行が足りないね。

これは、本当に「どこかで修行してきなさい」という意味ではなく、「練習や勉強が足りない」という軽い意味で言っているのです。

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「修行」ほどよく使われる言葉ではないが、同じような言葉に「精進」がある。「精進」も、もともと仏教の言葉である。

仏教では、殺生(動物などを殺すこと)は禁じられている。そのため修行者は、動物の肉は食べず、野菜などを食べて心身を清らかに保ち、修行に集中する。これを「精進」と言った。

日本の一般家庭で、仏式のお葬式をする場合には、今でも肉や魚を食べないで、野菜や豆腐など植物性の材料で作った料理を食べる風習がある。この料理を「精進料理」という。そうして「精進」の期間が終わると、「精進落とし」といって、肉を食べたり、お酒を飲んだりして、ふつうの生活に戻る。

「精進する」というのは、戒律を守り、ひたすら仏教の道を求めて努力することを指していたのが、だんだん、ひとつのことに集中して努力を続けることを言うようになったのである。「だいぶ腕を上げてきたが、一人前の職人になるためには、もう少し精進しないといけないな」などと言うように、何かについて、ひたすら努力を積み重ねることを言う。

「精進」は「修行」よりも、もっと真剣に、わき目もふらずに取り組む、というような語感がある。職人になるために勉強することを「修行」というが、そのために、毎日ひたすら努力するのは「精進」というのがふさわしい。

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武士道(ぶしどう)

一六〇三年に徳川家康によって日本が統一され、江戸時代(〜一八六八年)になると、日本では大きな戦争がなくなりました。そのため、武士は以前のように命をかけて戦う必要がなくなりました。もともと、武士の務めは主人のために敵と戦うことだったので、戦争がない世の中でどう生きるべきか悩みました。そして戦争がなくなっても、それまでと同じように、社会の中で重要な地位を保ち、誇りある生き方をするために、武士としての理想的な姿、精神的なあり方が追求されるようになりました。それが「武士道」です。

例1 現代の日本人は、武士道の精神を失ったと言われている。
例2 死を恐れないのが武士道だと言われてきた。

武士道とは、「武士として生きる正しい道」のことで、たとえば、何事にも死ぬことを恐れないで勇敢に立ち向かったり、社会のリーダーとして恥ずかしいことは絶対にしないようにすることなどです。うそをついたり、誰かをだましたり、自分の利益のために卑怯なことをしたりするのは、武士道に反することと考えられていました。

例3
A「本当にいいんですか?約束ですよ」
B「大丈夫。武士に二言はないよ」

「武士に二言はない」(武士は一度言ったことは必ず守る。言い訳などしない)、「武士は食わねど、高楊枝」(武士は、たとえお腹がすいていても、ほかの人にはまるで食後のように見せて、がまんする)といった表現は、今でもよく使われることわざですが、これらは武士道の考え方をよく表しています。

江戸時代の武士は、幕府(中央政府)や藩(地方政府)の役人であり、上から支給される米だけで生活していたため、あまり裕福ではありませんでした。しかし、武士の身分は、農民や商人よりも高かったため、農民や商人たちから尊敬されるような生き方をしなければならない、と考えられていました。そのため、たとえ生活が苦しくても、お金のことを口にしたり、貧しいことに不満をもったりするのは、武士道に反する恥ずかしいことだとされたのです。

江戸時代の武士は、戦国時代の武士とは違う意味で、つらい立場にあったようですが、武士道という言葉は、江戸時代が終わり、武士がいなくなった明治時代(一八六八〜一九一二年)になっても、日本人の心の中に生き続けました。特に一般の人々にも広く知られるようになったのは、一九〇〇年に新渡戸稲造が英語で書いた『Bushido: The Soul of Japan』がきっかけです。この本が海外で高く評価されたことにより、日本人もあらためて「武士道」を見直すようになったのです。

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武士の起源は、平安時代中期(十世紀ごろ)、自分たちの土地を守るために武器を持って戦ったり、普段から武術の訓練をしていた集団にある。一一八五年、それまで天皇や貴族に近かった武士である「平家」に、東国の武士である「源氏」が勝利した。その後、源氏は武士として、天皇や貴族よりも大きな権力を持つ「幕府」という政府をつくり、将軍を頂点として日本全体を支配するようになった。これが、「鎌倉幕府」(一一八五〜一三三三年)である。武士が権力をもつ幕府という政治制度は、一九世紀中ごろに江戸時代が終わるまでの約七〇〇年間続いた。

武士の特徴は、自分の土地を保証してくれる主人のために、命をかけて戦うということである。「一所懸命(一つの土地を守ることに命をかける)」という言葉はそのことを意味しており、それが転じて、「一生懸命」という言葉が生まれた。もともと武士は地方で自分の土地を持ち、そこで農業経営をしながら生活していた。だから、その土地を公認してくれる主人に対する義務として、命をかけて戦うという、いわばギブ・アンド・テイクの関係であった。しかし、江戸時代になると大きな戦争もなくなり、武士は「戦う」という仕事を失い、また都市で役人として生活するようになって、幕府や藩から米で給料をもらうサラリーマンのようになってしまった。また、平和を維持するために、中国の儒学の思想が尊ばれ、主君(主人)に対して無条件で仕える「忠」の考え方が重視されるようになっていった。

そういう中で、武士とは何であるのかがあらためて問われ、その精神的な面がより強調され、美化されて「武士道」となったわけである。

「武士道というは死ぬことと見つけたり」とは、江戸時代中期に書かれた『葉隠』という本の中の有名な言葉で、武士はいつでも戦争に行って死ぬ覚悟で日常生活を送るべきである、と主張している。

また、新渡戸稲造は『武士道』の中で、武士の身分について「Noblesse oblige」(名誉や地位のある者に課せられた責任や義務)という言葉で説明している。それは社会の中で重要な地位にある者は、その責任も大きい、という武士の立場を強調したものである。

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コラム 日常の会話から❹ 「すみません」!まず謝ることが大切

オフィスで
課長「鈴木君、ちょっと……」
鈴木「はい、何でしょうか?」
課長「この書類、君のハンコがないよ」
鈴木「あ、失礼しました!」
課長「これじゃ、部長のところに持って行けないじゃないか」
鈴木「すみません、ちょっと急いでいたもので……」
課長「いつも言ってるじゃないか、書類には必ずハンコを押しなさいって……」
鈴木「はい、大変申し訳ありません」

日本人は、他人との間に何か問題が起きたとき、まず謝らなければいけないと思っています。それは、相手を大切にし、不愉快にならないように、「気をつかう」(JP66)気持ちから来るものでしょう。お客さんや会社の上司などは、特に大切な人ですから、もし相手が不満や苦情を言ったら、何よりもまず謝ることが大切なのです。それによって相手に「誠意や真心をもって対応します」ということを示すのです。

具体的な問題そのものの解決(かいけつ)も必要ですが、その前に、相手の気持ちや感情に対して配慮することが大切なのです。ですから逆に謝らなかったり、自分は悪くないのだ、というような言い訳をしたりすると、どんなに小さなことでも、相手は怒ります。そして感情的になると、本当は簡単(かんたん)に解決できるはずの問題でも、複雑化(ふくざつか)してしまいます。

「お詫びの言葉もなかった」というのは、はじめに相手が謝らなかったために怒っているときの「決まり文句」です。

「簡単に謝ると自分に不利になることが多いので、謝らないほうがいい」という考え方の文化もあるようですが、日本では、どんなに理論的な説明も言い訳と思われることが多く、誠意をもって謝ることのほうが重要だと考えられています。

言い訳するより、まず謝る。それが、「潔さ(いさぎよさ)」(JP17)を好む日本人の感性なのです。


第七章 日本人の価値観


品(ひん)

日本人が何かを評価するときによく使う表現に、「良い」「悪い」のほか、「品がある」「品がない」があります。

「品」を使った言葉には、「上品」「下品」「品位」「品格」「品性」などがあり、どれも人の態度や行動、物の様子などを評価するときに使う言葉ですが、それでは品とは何か、と聞かれると、一言で説明するのはなかなか難しいものです。

例1 あの女優は、話し方に品があって好感が持てる。
例2 彼女はハンバーガーを食べるときでも上品に食べる。
例3 そんな下品なテレビ番組を見るんじゃありません!

たとえば、「彼女は品がある」と言ったとき、人によって思い浮かべるイメージは多少違うかもしれませんが、その「品」は、見た目がいいとか、きれいだとかという表面的なものではなく、彼女の言葉づかいや態度・行動に表れた内面的な美しさを指しています。

逆に、「品がない」「下品だ」「品位に欠ける」「品格がない」と言われるような人はどんな人か考えてみると、たとえば、公共の場で大声で話したり、人前で自分の感情をむき出しにするなど、周囲の迷惑を考えない行動や態度をとる人、自分がお金持ちであることを自慢する人、他人が聞いて不愉快になるような内容の話を平気でする人などです。

物に対しても「品がある」という表現はよく使います。たとえば、服や絵やコップや店など、「派手で華やかなものではなく、落ち着いていて美しいもの」に対して、単に「きれいだ」というよりも、「品がある」という褒め言葉を使うのです。

例4 この着物は、ほかのと比べてデザインは地味だが、品があって美しい。
例5 部屋に飾る絵は、派手なものよりも、品があって飽きないものがいい。

日本人は一般に、「控えめ」(IP110)であることを好みます。それは自分の感情を抑えることだったり、自分の意見を強く主張するのを控えることだったり、「遠慮深く」(IP61)ふるまうことだったりします。また物に対しても、明るい鮮やかな色や、金のようにピカピカした目立つ物、つまり派手なものより、抑えた地味なものを好みます(「派手・地味」→IP159)。

日本人のこのような価値観が、「品」という言葉で表されるのです。「品」とは、他人に配慮したり、つつましく、控えめであったりするような内面の美しさが、その人の行動や態度、しぐさなどに自然に現れた好ましい感じ、と言えるでしょう。物についても、あまり目立たないけれど、抑えた美しさが感じられるものを品があるといいます。

「品がある」と言われると、日本人はとても喜び、「品がない」「下品だ」と言われるのは、とても恥ずかしいことだと感じます。

「品がある」「上品だ」に近い言葉に「おくゆかしい」があります。人間が怒ったり、悲しんだりするのは自然なことですが、その感情や欲望をそのまま出すのは、やはり「品がない」と思うのが日本人です。たとえば、じっと自分の感情を抑えることができるような人、他人に心配りができるような人、そのような人の態度や行動の奥にある心の美しさが感じられて好ましいことを、「おくゆかしい」と言うのです。

品がない行動を批判する言葉に、「はしたない」があります。この「はしたない」は、大人なのに人前で大声で泣いたり、パーティの席で高級なものだけをガツガツと食べたりしたときなどに使われ、抑えるべき感情を表に出したり、隠すべき欲望をむき出しにしたりすることを非常に嫌う日本人の感性がよく表れた言葉と言えるでしょう。

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大和撫子(やまとなでしこ)

女子サッカーの日本代表はワールドカップでも活躍し、世界でも有名ですが、そのチームは「なでしこジャパン」という名前で親しまれており、日本の女子サッカーリーグも「なでしこリーグ」と呼ばれています。この「なでしこ」は、美しい日本女性を指すときの代名詞「やまとなでしこ」からきた言葉です。

「やまと(大和)」とは、「日本」という意味の古い言葉です。「大和言葉(「日本に元からある言葉」)」や、「大和魂(「日本人本来の意識や精神」)」など、昔から日本にあるものを指すときによく使われます。「やまとなでしこ」はもともと、初夏に薄いピンク色の小さなかわいい花をつける野草の名前で、「なでしこ」とも呼ばれています。控えめ(P110)で上品(P152)な美しさのあるこの花を日本女性と重ね合わせ、美しくて理想的な日本女性の代名詞として「やまとなでしこ」という言葉が使われるようになりました。

例1 彼女こそ、まさにやまとなでしこ。すばらしい人だ。

「やまとなでしこ」は、理想的な日本女性を指す言葉ですが、その条件のひとつとしてよく挙げられるのが「しとやかさ」です。「しとやか」というのは、言葉や態度・性格などが静かで落ち着いており、控えめで上品な女性の様子を表した言葉で、昔は「しとやかさ」はよく理想の結婚相手の条件として挙げられていました。

例2 結婚するなら、しとやかで家庭的な女性がいいです。

かつて、しとやかな日本女性は外国人男性にとってもあこがれの的でした。しかし現代では、女性の社会進出が進み、女性に対する社会的な評価も多様化してきたため、必ずしも「理想的な日本人女性はしとやかだ」というわけでもなくなってきました。したがって、「やまとなでしこ」は、日本の伝統的な理想の女性像なのです。

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派手・地味(はで・じみ)

赤・黄・青などの明るく鮮やかな色を「派手な色」、カラフルな色や目立つ模様があるような服を「派手な服」と言います。つまり、「派手」とは、「人目につく」というような意味で、人の様子や態度、行動についても使います。

例1 彼はいつも派手なことばかりするので、上司はいつもひやひやしている。
例2 芸能人は生活が派手だと思われているが、みながそうとは限らない。

「派手なこと」というのは「目立つような行動」、「派手な生活」というのは「豪華で人目をひくような生活」、「派手な性格」というのは「自分の感情や好き嫌いを隠さずに強く出すような性格」という意味です。

「派手」という言葉を人に対して使う場合は、一般的にあまりいいイメージではありません。「もっと控えめにするべきなのに」というような気持ちが含まれています。

「派手」の反対は「地味」で、目立たない、抑えた感じのことを言います。たとえば、ビジネスマナーの本にはよく「会社では派手なお化粧は避けましょう」とか、「スーツは地味な色のものを選びましょう」などと書いてあります。相手に印象づけるために意図的に派手にする場合もありますが、一般的にビジネスの場面では、地味で控えめな格好のほうが好まれます。

日本人は基本的に、派手なものよりも地味なものを好む傾向があると言えます。しかしながら、積極性や現代的な個性が求められるような場面で、「あの人って地味だよね」とか、「その洋服、ちょっと地味じゃない?」などと言われたら、それは「つまらない」「おもしろくない」というような意味になるので注意が必要です。

「地味」に似た言葉に、「渋い」があります。「渋い」とは、濃いお茶を飲んだり、熟していない柿などを食べたりしたときに感じる味覚を指す言葉ですが、「渋い色」「渋いファッション」「渋い男性」「渋い生き方」のように使った場合、「派手でなく、落ち着いていて、深い味わいがある」といういい評価を表します。

例3 若いのにバッハが好きだなんて、なかなか渋いね。

例3の「渋い」は、「若い人はふつう、ポップスやロックなどの派手な音楽が好きなのに、バッハが好きだというあなたはセンスがいい」と褒めているのです。

そのほかにも日本語には、「素朴」「飾り気がない」「品がいい」「上品」など、「派手でない」ものを評価する言葉がいろいろあります。

日本画や茶道のような日本の伝統文化の方面でも、派手で豪華な美しさよりも、地味で簡素なもののほうがより高い評価を受けます。よく日本文化を紹介するときに、ほとんど装飾品のない茶室や石庭、あるいは古い静かな寺院などが取り上げられますが、そこに見られるような美的価値を「わび・さび」と言います。

「わび」と「さび」は一緒に使われることが多いのですが、意味は少し異なります。

「わび」は、現代語で「侘しい」という形容詞があるように、貧しい、みすぼらしい、もの足りないというような、あまりよくないイメージの言葉でした。けれども、茶道や俳句の世界を中心に、「豪華で派手なものよりも、自然なものや質素なものの方が美しい」という美意識が生まれ、「わび」として尊重されるようになりました。

一方「さび」は、現代語に「寂しい」とか「寂れる」などの言葉があるように、人気がないとか、静かで孤独だ、というような意味でした。しかし、世間から離れてひっそりと静かに暮らす生活や、古くて枯れたようなものの中に、本当の人間らしさや美を見つけ出し、それを「さび」と呼んだのです。

日本人は、派手で贅沢なものではなく、古いもの、簡素なもの、静かなもの、自然なものの中に味わい深い美を発見し、それを高く評価してきました。それが「わび・さび」と言われるものなのです。日本の美を語るときのキーワードと言えるでしょう。

もっと深く

鎌倉時代末期の有名な随筆家、吉田兼好の書いた『徒然草』に、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは(満開の桜や満月だけがいいわけではない)」という一節がある。日本人には昔からこのような、ある種の不完全なもの、はかないものに美を見る感覚がある。

また、一見地味だが、実力や魅力がある男性を「(あの人は)いぶし銀のような味がある」と言う。「いぶし銀」とは、銀の表面を煙で黒くして、わざと輝きを消したもののことであるが、キラキラと輝く派手なものよりも、地味で古びたものを好む日本人の感性が、このような褒め言葉に表れている。

中国の宋から入った「茶の湯」は最初、人を招いてお茶をたてるだけのものだったが、簡素を重んじる禅の思想や、生死の間に真の生き方を求めようとする武士の心と深く結びつき、「わび・さび」を第一とする芸術にまで高められ、現代の「茶道」につながっていった。

日本の「禅文化」を世界に紹介した鈴木大拙は、その著『禅と日本文化』の中で、「わび・さび」を「貧乏の美的趣味である」と定義している。

「清貧に甘んずる」という言い方があるが、これは「金もうけのためにあくせくするよりも、貧乏でも清く正しい生き方を楽しむ」という意味である。このような言葉が好まれるところにも、「わび・さび」の世界を尊ぶ日本人の心を見ることができる。

単語ノート


恩・義理(おん・ぎり)

日本人は一般に、誰かに何かを「してあげた」「してもらった」という感覚が強いようで、実際に何かをしてもらったそのときにお礼を言うだけでなく、一週間、二週間たった後でも、あらためて「この前はありがとうございました」とお礼を言うことがよくあります。
そのような習慣のない文化圏の人は、なぜそんな昔のことを話題に出すのかと驚くようですが、日本人は、どんなに小さなことでも、人が自分のためにしてくれたことを嬉しい、ありがたいと思い、いつまでも忘れないことが大切だと思っています。これを「恩」と言います。

そして、自分が受けた「恩」の程度によっては「お返し」が必要で、何か物を贈ったり、相手が困っているときに助けたりします。それを「恩返し」といいます。お世話になった人にお礼やお返しをしないと、「恩知らず」と批判されることになるでしょう。

例1 早く自立して、今まで育ててくれた両親に恩返しがしたい。

例2 お世話になった人を裏切るなんて、なんて恩知らずなやつだ。

誰かにお世話になったり、助けてもらったりしたとき、その人に対して自分が受けた「恩」を返さなければいけないと思うように、当然しなければいけないことを「義理」と言い、その人に対して「義理がある」とか「恩義がある」と言います。

例3 あの人には義理があるので、頼みを断れない。

「義理」はもともと、人が守るべき正しい道理や、その社会で当然とされているルール、というような意味ですが、日常生活で使われる場合は、世間や対人関係の中で当然するべきだと思われている事柄を言います。
「恩を受けたら返す」とか、「結婚する人にはお祝いを送る」とか、人間同士の「つきあい」(→P84)の中で、当然しなければならない習慣などのことです。

例4 後輩の吉田君はとても義理堅くて、旅行に行くと必ずおみやげを買ってきてくれる。

たとえば旅行に行ったときに、日頃お世話になっている人に、おみやげを買ってきてお礼の気持ちを表すなど、相手からの「恩」にお返しすることや、その社会で習慣としてすべきことをきちんとする人は、「義理堅い」と褒められます。逆に、そうでない場合は、「礼儀」(→P93)を知らないと思われます。義理の感覚は、それほど日本社会において大切なものなのです。

例5 忙しさのあまり、お世話になった人にずっと連絡ができずに義理を欠いている。

当然するべきつきあいや世間の約束事などをしないことを「義理を欠く」と言います。日本人は冠婚葬祭(=結婚式や葬式など)をとても大切にしますが、そのとき習慣上すべきことに特に注意し、「義理を欠く」ことのないようにします。

たとえば、お世話になった人が亡くなったら、何をおいてもお通夜やお葬式に参列する、結婚や出産などのお祝い事があったら、できるだけ早くお祝いの品を送るといったことは、非常に大切なことです。

日本の結婚式はご祝儀(=お祝いとして包むお金)が高額なことで有名ですが、結婚する人がもっとも多い三十歳前後には、友人や同僚の結婚式に続けて参列して「ご祝儀貧乏」となる人が多いようです。しかし、いくら金銭的に苦しくても、招待されたらよほどの事情がない限り、断らずに出席します。

このようなところにも、日本社会の「義理」の意識が色濃く表れています。

もっと深く

日本では、二月十四日のバレンタインデーに、女性が好意を持つ男性にチョコレートをプレゼントする習慣がある。それと同時に、女性が、男性の友人や会社の先輩などにチョコレートを配ることがあるが、それは「義理チョコ」と呼ばれる。好き嫌いではなく、社会の習慣から「義理であげるチョコレート」なのである。
「義理」という言葉は、このように本心からではなく、「義務だから」「しかたなく」というニュアンスを持つことがしばしばある。

「義理と人情の板挟み」という言い方がある。たとえば、泥棒を捕まえたら我が子だったという場合、かわいい我が子を犯人にしたくないのは「人情」だが、だからといって逃がしたら社会のルール、つまり「義理」に反することになる。そこで「義理」と「人情」の間で「板挟み」になり、苦しむことになる。

日本には昔からこの「義理と人情」をテーマにした物語がたくさんあるが、それほど、義理は人情と対立することが多かったということであろう。

単語ノート


潔い(いさぎよい)

日本では、ある会社が何か問題を起こしたとき、その会社の社長がすぐに頭を下げて謝る姿が、よくテレビで報道されます。これはほかの国ではあまり見られない光景かもしれません。「不利になるから、できるだけ謝らないほうがいい」「謝罪は後でいいから、先に説明すべきだ」などと、この光景をふしぎに思う人も多いでしょう。

しかし日本では、少しでも自分に悪いところがあったら、いろいろと言い訳をしないで、素直に(→P33)責任を認めて謝罪したほうがいいと考えられています。このような態度を「いさぎよい」と言います。反対に、何か悪いことをしたのに、いつまでも謝罪の言葉もなく長々と言い訳をすることは、「いさぎよくない」態度だと考えられ、相手に非常に悪い印象を与えます。

例1 その会社の社長は、自社に責任があることをいさぎよく認めて、謝罪した。
例2 試合に負けて言い訳をするなんて、いさぎよくない。

以前、日本でエレベーターの事故で人が亡くなったとき、そのエレベーターを作った外国企業の社長(その人は外国人でした)は、テレビで謝罪するよりも先に事故が起きた原因を説明し始めました。この社長は、それから一週間以上たってようやく謝罪の言葉を口にしたのですが、日本人から見ると、このような原因の説明は言い訳に聞こえ、いさぎよい態度とはとても思われないので、大きな問題となりました。

「いさぎよさ」というのは、武士の時代には特に重要なことと考えられていました。武士は主人のために戦うのが務めですから、戦いに負けたら、思い切って死ぬのがいさぎよいことで、逃げたり、自分を殺さないように敵に頼んだりするのは、とても恥ずかしいことだと思われていたのです。

そのことがよく表れた行動が、有名な「切腹(腹を刀で切って自殺すること)」です。何か過ちを犯したり、自分の責任を果たすことができなかった場合、武士は言い訳したりせずに切腹するのが、いさぎよいと考えられていました。

また、いさぎよいものと言えば、日本人なら桜をまず考えます。桜の花はいっぺんに満開になった後、すぐに散ってしまいます。色が悪くなっても散らないで、いつまでも咲いているような花と違って、パッと咲いてパッと散る桜の花を「いさぎよい」と考えるのです。それが、日本人が桜を愛する理由のひとつです。

日本の政治家は、少しでも問題を起こしたら、世間からすぐに辞任するよう求められます。責任を曖昧にしたり、言い訳をしたりして政治家の地位にこだわるのではなく、いさぎよく辞任するのが、ひとつの「けじめ」(→P28)であると考えるからです。日本の首相がすぐにかわる理由のひとつと言えるかもしれません。

もっと深く

「いさぎよさ」は武士の道徳の中で、もっとも重要な観念であると言っていい。武士の務めは戦うことであり、死を恐れずに勇敢に戦うことこそ、武士の理想的な姿であった。したがって、戦いに勝つために最大の努力を払ったにもかかわらず、運悪く負けた場合、敵の前で逃げたり、敵に命乞いをする(=自分を殺さないように頼む)ようなことはせず、名誉あるものとしてむしろ死を選んだ。このような態度を「いさぎよい」と褒めたのである。

「敵に後ろを見せる(=敵に自分の背中を見せる)」というのは、武士が敵を恐れて逃げることを意味する言葉だが、これは、武士にとってもっとも「恥」だと思われていた(「恥」(→P47))。一生懸命に戦って負けたなら、いさぎよく死ぬべきだ、というのが当時の武士の考え方であったのである。

ルース・ベネディクトは、その著『菊と刀』の「戦争中の日本人」のところで、日本人の無降伏主義について語っている。日本人は、アメリカ軍が戦闘機に救命具を備えつけているのを卑怯だと考えることに触れ、日本人にとって「名誉とはすなわち、死に至るまでたたかうことであった」と指摘している。

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もったいない

たとえば、お菓子をちょっと食べただけで残りを捨ててしまったり、少ししみがあるだけの服を捨てたりしたとき、「まだ食べられるのに……」とか「まだ着ることができるのに……」と思いますが、その惜しむ気持ちを表す言葉が「もったいない」です。

例1 こんなに涼しいのにクーラーをつけるなんてもったいない。
例2 試験の前なので、おしゃべりする時間ももったいないと思う。

使えるもの、食べられるもの、有益なものなど、価値があると思われるものが無駄になるのを惜しむ気持ちを、「もったいない」と言います。日本はもともと自然の資源が多い国ではなく、昔から日常生活において、物を大切に使うように、無駄づかいをしないように、という考え方が強調されてきました。ですから、昔は米一粒を残すのも「もったいない」と言われ、茶碗の底に残ったご飯粒も全部きれいに食べなさいと親から注意されたものです。

「もったいない」は物だけでなく、人に対しても使われます。

例3 彼のような優秀な人材を遊ばせておくなんて、実にもったいない。

例3は、人が能力を生かさないままでいることを惜しんでいるわけです。

ふつう、「もったいない」は、無駄なことに対して注意したり、批判したりするときに使われますが、次の例は、少しニュアンスが違うので、注意が必要です。

例4 あの奥さんは、彼にはもったいないようなすばらしい人だ。
例5 こんな高価なものをいただくなんて、もったいない。

例4は、彼に比べて奥さんはすばらし過ぎるので、彼にふさわしくない、という意味になり、例5は、自分の身分に比べて高過ぎる、自分にふさわしくないものをいただいた、という謙遜の表現で、お礼を言うときによく使われます。いずれも、「その価値がわからない、その価値を生かすことができない」ので「もったいない」という発想から生まれた表現です。

「もったいない」という日本語は、英語の「wasteful」や、中国語の「可惜」などでは、そのまま置き換えられないニュアンスをもっている。

ノーベル平和賞受賞者で、ケニアの環境副大臣だったワンガリ・マータイ氏は、二〇〇五年に来日した際、日本語に「もったいない」という言葉があるのを知った。そしてそれが、資源を大切にして継続的に利用していくための考え方、「Reduce(廃棄物を減らす)」「Reuse(再使用する)」「Recycle(再資源化する)」の「3R」をたった一語で表していることに深い感銘を受け、「もったいない」を環境保全の標語として世界に広めようと呼びかけた。

日本の環境省発行の「平成一七年版環境循環型社会白書」では、「もったいない」という日本語が、単に物を惜しむだけではなく、物が持つ本質的な値打ちや役割が生かされないことを惜しむ、という意味を持っていることを指摘し、エネルギーの無駄をなくす、物の持つ値打ちを余すことなく使い切る、という「もったいない」の精神を大切にすることを提言している。

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参考文献